デパートのルネッサンスはどこにある? 2022年12月15日号-59

シリーズ「そごう・西武」売却 第4弾

混沌とする西武売却

 前号でセブン&アイ・ホールディングスによる、百貨店「そごう・西武」売却のニュース第3弾「売却は難航から混迷へ」をお届けした。

 今号では、この売却の様々な障害、問題点について論じたい。

旗艦店の顔

 今、百貨店業界で、一番の話題は、百貨店「そごう・西武」の旗艦店である西武池袋本店の「ヨドバシ化」であろう。売却交渉の決着により、家電量販店のヨドバシカメラが池袋西武に「出店する」のではなく、現状の西武百貨店を押しのけて、ヨドバシがビルの顔になる(らしい)という話だ。
具体的には、現西武池袋本店の地下1階から地上4階までにヨドバシが入居し、西武百貨店はそれより上の階に集約するという案が検討されている、というのだ。

 前号でも述べたが、池袋西武は「腐っても」売上高日本第3位の百貨店である。そのデパートの1階が電気屋(失礼!)になってしまうのだ。
有楽町のそごうも新宿三越も、ヨドバシのライバルである家電量販「ビックカメラ」になっているのに、筆者は何を今頃騒いでいるのだろう、と、いぶかしく思う購読者もいるかもしれない。売上不振から閉店した店と、いま尚現役の西武の旗艦店を比較するのは、池西に対して失礼であろう、と筆者は思う。
だからこそ、今回の事案(事件)は、日本のデパートの歴史の中で「の」エポックメーキングと思えてしまうのだ。

異例の不動産売却

 11月11日、セブン&アイ・ホールディングスは臨時取締役会を開き、傘下の百貨店子会社であるそごう・西武の売却をアメリカの投資ファンド、フォートレス・インベストメント・グループに2000億円超で売却することを賛成多数で決議した。セブン&アイはフォートレスにそごう・西武の株式を譲渡する、というコトだ。フォートレスが連携する家電量販店大手のヨドバシホールディングスは、多額の資金を拠出して、西武池袋本店やそごう千葉店の一部のほか、そごう・西武が渋谷に所有している不動産を取得し、傘下のヨドバシカメラを出店させるとみられている。千葉そごうも渋谷西武も(池袋西武同様)ヨドバシカメラになってしまう、というコトなのだ。

 1月末に遡ると、スタートからして今回の売却劇は、とにかく異例続きだったと言える。応札した投資ファンドから、運営についてのクレームが多数寄せられたという話だけでなく、中には入札事態に不信感を抱いて、応札を辞退するファンドもあったという。最終的にフォートレスに優先交渉権を付与してからも、実際の交渉は遅々として進まず、交渉期限を何度も延期した。 

セブン内部の動揺

 当初、セブン&アイの経営陣は11月10日に開催する取締役会で売却を決議し、その日のうちに発表しようと考えていた様だ。理由は明白だ。決算期末である2023年2月までにフォートレスとの契約をまとめたかったからだ。

 ところが、西武池袋本店の土地の一部を所有する西武ホールティングスの同意を得ていなかっただけでなく、そごう・西武の労働組合への説明も事前になされていなかった。当然クリアすべき懸案事項が、多々残されていたことについて一部の社外取締役から異論が噴出した。このため取締役会で賛成票を得ることができるのか、極めて不透明な状況に陥っていた。
11月6日に海外の機関投資家回りから帰国したセブン&アイの井阪隆一社長は、幹部らとの協議のため、社長室にこもりっきりだった、という。

ぎりぎりの判断

 事情に詳しい関係者によれば、極めて難しい状況に直面した井阪社長は、ディール(取引)自体を「一旦白紙に戻そう」と周囲に漏らす場面もあったという。

 しかし、どうしてもディール(取引)をまとめたい一部の役員や、報酬を得たいフィナンシャルアドバイザーが井阪社長を説得して翻意を促したと、いうから驚きだ。

 結果的には、11月10日の取締役会で、セブン&アイ側は交渉の経緯を説明した後、社外取締役が問題視していた前述の懸案事項についても全て解決したと報告。異議を唱えていた社外取締役たちも納得したことで、翌11日に臨時取締役会を開催することになり、フォートレスへの売却を決議した。

積み残した問題

 とはいえ、これですべてが解決した訳ではない。なぜなら前述した懸案事項は、根本的にはなんら解決していないからだ。
この時点で、西武鉄道、即ち西武池袋駅を有する西武ホールディングスの同意も、得られてはいなかった。別の関係者によれば、セブン&アイ側西武HDの後藤高志社長との面会を申し込んだものの実現しなかった、という話も聞こえて来た。

 結局、井阪社長は西武HDの後藤社長とは、電話で短時間話しただけに過ぎないという。もちろん、電話で簡単に同意が得られるたぐいの話ではないのは明らかだ。

2つの西武

 西武HDの後藤社長には、遡ること9年前の2013年に、自社が今回と同じ様な危機に見舞われた。それまで二人三脚で経営再建を進めていた大株主の米ファンド、サーベラスが、敵対的TOB(株式公開買い付け)を仕掛けてきたのだ。後藤高志西武HD社長はグループの結束を呼びかけ、会社を見事に守り抜いた。株主だけでなく、沿線住民の支持もあったと記憶している。

 言うまでもないが、西武鉄道と西武百貨店は、1971年当時、トップ同士の「兄弟の確執」から袂(たもと)を分かった。異母兄である堤清二が、西武百貨店と西友、パルコを中核とする「西武流通グループ」を旗揚げ(その後セゾングループに改名)し「2つの西武」はそれぞれの道を歩んだ。

 弟の堤義明が率いた西武鉄道グループ(後の西武ホールディングス)も、現後藤社長の代になって、上記の様な危機を何とか乗り越えた。但し、もう一つの西武(百貨店)は今、当時の鉄道グループとは対照的な結果を招いてしまった。

 そごう・西武も、その最後のフェーズを「外資」によって翻弄された形だ。因縁というか宿痾(しゅくあ)の様なモノまで感じてしまう。
いつも同じエクスキューズで恐縮だが、「2つの西武」については、限られた紙面で消化できるエピソードではないので、ここまでとさせて貰う。そして、そごう・西武の労組との協議も進んでいない。

西武池袋本店

無視された労組

 パートを含む約4500人の従業員の雇用がどうなるのか不安を抱えていた労組は、これまで何度もセブン&アイの経営陣に説明を求めてきた。

 しかし、不可解なことに井阪社長はこれまで直接の面談を拒み、更に具体的な説明を一切して来なかったのだという。それでも前述した様に11月の帰国後に、井坂社長はようやく、組合幹部と2度に渡って面談。井坂社長は「面談はきわめて友好的に進んだ」と、周囲に漏らした、という。
しかし組合側は、ヨドバシカメラの出店により「百貨店としてのブランド」が棄損し、雇用を維持できなくなってしまうのではないかと危惧していた。これは、デパートマンならずとも、誰しもが真っ先に考えるマイナスポイントであろう。

 百貨店にとって、ブランド=信用が、どれだプライオリティの高い事項かは、本コラムで何度も言及している。労組側は「セブン&アイの対応は『雇用問題は売却先のフォートレスやヨドバシが考えること』と言わんばかりだ」と断じ「セブンは売却さえ出来れば、従業員の将来などどうでもいいと考えている」と批判した。

 この様な乱暴な売却劇は、セブン&アイ自体の「ブランド棄損」に繋がってしまうのでは、と今度は我々報道する側が危惧する事態となった。

業界への影響

 最後に、去り行く「そごう・西武」を偲んで、ではないが、その実績を確認しておこう。

2022年全国百貨店店舗別 売上高ランキング ベスト15

(順位 店舗名 売上高 対前年比)

順位店舗名売上高対前年比
1位伊勢丹新宿本店2536億円22,5%
2位阪急うめだ本店2006億円14,6%
3位西武池袋本店1540億円11,1%
4位高島屋日本橋店1239億円9,9%
5位高島屋横浜店1185億円22,9%
6位三越日本橋本店1144億円13,0%
7位高島屋大阪店1092億円12,7%
8位松坂屋名古屋店1039億円20,0%
9位そごう横浜店949億円17,9%
10位高島屋京都店740億円12,5%
11位大丸神戸店701億円19,4%
12位岩田屋本店679億円14,9%
13位そごう千葉店656億円14,7%
14位東急渋谷本店635億円5.9%
15位小田急新宿本店595億円18,9%

ご留意頂きたいのは、14位の東急渋谷本店と15位の小田急新宿本店だ。
本コラムの購読者ならお判りの様に、小田急は既に本年10月2日に閉店し、東急も年明け1月末日を以ってそのシャッターを閉める。ランキング13位の千葉そごうから百貨店3店舗の「消失」が確定したのだ。
この1~2年という短期間に、歴史ある百貨店の本店や旗艦店がクローズしてしまうのだ。
弊社デパート新聞社のWEB部門でも「百貨店 閉店」のキーワード検索が、群を抜いて多いというデータが上がっている。

百貨店の閉店が相次ぎ、次はどこのデパートが閉まるのか、というのが、消費者の関心事となっている訳だ。この悲しい事実をお伝えして、今号は筆を置く。

禅門の勢力伸長

 富子の理財(運用ないしは利殖) を検証していく前に、この時代に著しく教線を伸ばし、従来の宗教勢力(権門寺院) を凌駕するほど力を持つようになった禅門について記していきたい。

 飛鳥時代以降、仏教は諸政権の後押しもあって急速に浸透していった。そうした中、臨済宗に代表される禅宗は、栄西によって鎌倉時代初期に日本にもたらされた。その後、留学僧を通じて大陸国家との伝手(つて)を増やしていった禅門は、多くの経典や漢籍、茶葉や茶の湯といった嗜好品や習慣、また茶道具や書画骨董なども日本に持ち込んだ。 

 だが多大な権益を有する権門寺院と伍していくのは容易ではない。その活路を栄西は交易に求めた。これはうまくいき、独自ルートの交易によって禅門は裕福になっていく。
さらに栄西やその後継者たちは、鎌倉幕府と手を組むことで、さらに勢力を拡大していった。鎌倉幕府は権門寺院の勢力があまりに強くなり、頭を悩ましていた折でもあり、禅門を優遇して対抗勢力に育てようとしたのだ。

 かくして鎌倉時代から室町時代初期にかけて、禅門の教線は急速に伸びた。
しかし室町幕府の四代将軍義持によって日明交易が衰えると、教線の伸張にも陰りが見えてきた。そのため幕府に働き掛け、没落公家や南朝方の荘園を拝領し、さらに武士の荘園管理を代行することで勢力を維持した。

 かくして荘園利権から上がる利益の一部を幕府に献金し、禅門は巨大勢力へと成長していった。鎌倉時代には鎌倉五山、室町時代には京都五山という形で寺院の組織化も進み、権門寺院が見る影もなくなるほど強固な地盤を築いていく。

 禅門の勢力伸張により、自分たちの既得権益が侵されそうになった権門寺院は、何かと言えば禅門と諍いを起こし、幕府に訴えた。だが幕府は禅門から多額の献金を受け取っており、権門寺院の訴えに耳を貸さなかった。かくして双方の差は開くばかりとなる。

 禅門は権門寺院に倣い、金融にも手を出した。権門寺院は土倉(どそう)や酒屋といった市中金融業者( いわゆるサラ金) に元手となる資金を提供し、それを土倉や酒屋が中小の商工業者や庶民に貸し付けていたが、ここに禅門も参入したのだ。

 土倉とは納屋( 倉庫業) や問丸( 運送業) などを兼ねる貸金業者で、質草を収める土壁の蔵が敷地内にあるため、そう呼ばれるようになった。土倉には酒屋( 醸造所) を兼業で営んでいる店もあり、その場合は酒屋と呼ばれる。

 さらに禅門は『東班衆(とうばんしゅう)』という理財専門の僧たちを養成することで、旧態依然とした貸出方法から脱せられなかった権門寺院との差を広げていった。金融が盛んになると、取り立ても重要な仕事になる。

これまでも借金を返さない者がいれば、土倉や酒屋は元手を出している寺院の末寺(まつじ)に泣きつく。となると権門寺院は僧兵を繰り出す。

 しかしここからが違う。禅門には提携している土豪や武士集団があり、取り立て業務を委託したの
だ。僧兵は正社員なので固定費が掛かる。だが土豪や武士は「外注さん」なので固定費が掛からない。そのため禅門は荘園の代官業務まで土豪たちに外注した。

これは禅門の賢さの一例だが、新たなビジネスモデルを築くよりも、そのウイークポイントをマイナーチェンジした者が、効率よく勝ち残るのだ。

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