デパートのルネッサンスはどこにある? 2020年12月15日号-15

~ 百貨店よ、どこへ行く ~

脱百貨店の表明〈髙島屋と大丸松坂屋〉

 日経MJ11月2日号の「トップに聞く」は、髙島屋の村田社長へのインタビューを載せている。

 タイトルは『百貨店はテナントの一つに』「東神開発がグループの軸」だ。

 日経MJ11月25日の、今度は一面には『Jフロ ント「百貨店ごっこ」やめた』「自社売り場をテナントに」というタイトルが躍っている。「大丸心斎橋にパルコ開業」「若者呼ぶ強み|パルコの原点」と続き、J・フロントリテイリングの好本社長のインタビューが 掲載されている。聞き手はいずれも、日経MJの鈴木編集長だ。

 本紙12月1日号の当欄にて、大手3大百貨店として、三越伊勢丹、髙島屋、大丸松坂屋(Jフロント)の現況を取り上げた。阪急阪神やそごう西武には申し訳ないが、売上規模とブランド力含め、我が国の3大百貨店 は名実ともに、上記3社であることに、疑いはない。

 しかるにそのうちの2社は社長本人が、「百貨店を止める」「テナントの一つになる」と言っているのだ。名にし負わば、わがデパート新聞としては、見過ごせない記事だ。デパートのルネッサンスを探していたら、 いきなり「百貨店に未来はない」という話を聴かされたのだ。それも大手百貨店のトップ2人から。

 さて、少し落ち着いて、このインタビューを読み進めたい。キーワードはやはり「テナント化」であり、髙島屋では東神開発、Jフロントではパルコが、グループの軸になるという。判で押した様に(この比喩がいつまで使えるかも気になるところだが)両社長とも、傘下の商業=不動産デベロッパーの名前を挙げた。まるで遺産相続人の指名のごとくだ。

 百貨店のテナント化=ショッピングセンター化については、本紙でも何度か取り上げている。8月合併号では、百貨店の生き残り策の一例として、百貨店のSC化=テナント化を考察し、例として所沢と東戸塚の西武 S.C.を取り上げた。続いて9月1日号で、玉川髙島屋S・Cの約半世紀にわたる、百貨店と専門店(テナント)の複合業態の軌跡を取り上げている。

髙島屋 

 先ずは、髙島屋だ。村田社長は先のインタビューで「インバウンド消費により、やや上向いた市場規模が想定外のコロナ禍により、6兆円を割り込むどころか、一気に5兆円を下回るかもしれない。ネットシフトも含め消費の実態も、もうコロナ前には戻らない」、と言う。更にこう続ける「東神開発は2018年には日本橋髙島屋ショッピングセンターを開くなど、積極的な事業展開を続けています。今まで百貨店が主だった髙島屋グループは、今後は東神開発が主になります。グループの今後の戦略についても、東神開発が担います。」と断言している。

 そして、冒頭で掲げた発言に繋がる「髙島屋は東神開発が手掛ける施設の巨大な1テナントになるのです。」と。

大丸松坂屋

 一方、この5月にJフロントリテイリングのトップに就いた好本社長は、12月20日に大丸心斎橋北館に開業した心斎橋パルコを例に、持論の「脱・百貨店」論を展開した。コロナ来襲の直前にパルコを完全子会社化して、初の大丸+パルコの「コラボ」が心斎橋である。

 但し、これには伏線があり、パルコの完全子会社化前の2017年に、グループ内の上野松坂屋の南館を上野パルコヤとしてオープンしている。大丸松坂屋としては、心斎橋が2度目のコラボレーションであるわけだ。只、今回は昨年末にリニューアルした、パルコの旗艦店である渋谷PARCOのノウハウを惜しげもなくつぎ込んだ、最先端の都市型商業施設であり、コロナ禍により分散オープンとはなったものの、Jフロントリテイリングの総力を挙げた、集大成とも呼べる「百貨店」である。好本社長も記事に「心斎橋店は大丸最大の旗艦店で再開発に5年をかけた。Jフロントが追求したのは『百貨店の未来』だ。」と言い切っている。総額500億円を投じ、本館を建て替え、約8万平方㍍の売り場を持つ最新店舗を作り上げたのだから、それも頷ける。

GINZA SIX

 もちろん、Jフロントも、すべてをパルコ頼みにしている訳ではない。その証拠が2017年に88年の歴史に幕を降ろした松坂屋銀座店の跡地に完成した、GINZASIXだ。森ビルや住友商事の助けを借りたものの、銀座エリア最大の9000平方㍍の敷地面積に、延床にして15万平方㍍弱の商業ビルを完成させたことが、今回のプロジェクトの自信となったのは、想像に難くない。因みにGINZA SIXは百貨店ではなく、完全なショッピングセンターだ。従ってテナント比率は100%であり、売場も、名称にも、百貨店の「痕跡」さえ残さずにビルを完成させたのには、Jフロントの覚悟を感じさせられた。最も、4丁目には銀座三越、3丁目には松屋銀座という、「正統派」百貨店との直接競合を避けた、という見方も出来なくはないが。松坂屋の再生では銀座で戦えない、という判断は正しかったのだろう。

大丸心斎橋店本館

 2019年秋に先行してオープンした大丸心斎橋店本館のテナント比率は65%であり、大丸松坂屋の従来のテナント比率平均である20%を3倍以上も上回る。もう一つの3大デパートの一角を成す、三越伊勢丹の旗艦店である伊勢丹新宿本店や、同じ大阪エリアでも、阪急うめだ本店はテナント比率がほぼ0に近い。
Jフロントの好本社長が、従来型の百貨店経営を否定し、テナント比率を高める背景には、先ず最初にコスト削減がある。主には人件費の削減だ。それは大丸と松坂屋を統合し、Jフロントグループを作った、先達である奥田元会長による、コストカット路線の踏襲でもある。

 テナント化によるコスト削減は絶大だ。大丸心斎橋店は店舗運営に係わるスタッフのポストを200以上廃止し、ローコストオペレーションを実現している。百貨店にとって「接客=おもてなし」という一番の強みが、利益を生み出し続けなければならない企業として、一番の足かせになっていたことが判る。どの百貨店でも、人材という一番の武器が、人件費というマイナスファクターと表裏一体であることは、頭では判っていたはずだ。それを、テナント化によるコスト削減という「正面突破」で切り抜けたところに、Jフロント躍進の鍵があるのだろう。

 筆者としては、少しJフロントを持ち上げ過ぎた。以下に修正を記す。

東神開発

 専門店ビル、駅ビル、テナントビル、ショッピングセンタ―、商業施設。今やいろいろな名称があるが、日本における、商業施設の先駆けは、玉川髙島屋S・Cと池袋パルコに端を発する。1969年11月のことだ。偶然か必然か、ほぼ同時期に2つの専門店街が、池袋と二子玉川に産声を上げた。何と今から51年前のことだ。

 玉川高島屋S・Cは百貨店である髙島屋と340の専門店(テナント)を一つの商業施設として開業させており、大丸心斎橋の本館(百貨店)と北館(パルコ)と同じ構造だ。大丸心斎橋は半世紀以上かけて、やっと髙島屋に追いついた、といううがった見方も出来なくはない。

 只、郊外立地である二子玉川と、大阪の一等地である繁華街心斎橋を比べるのも失礼なので、もう一つの例を紹介しよう。

パルコ

 池袋パルコは、当時飛ぶ鳥落とす勢いの(日本一の売上をマークしたのだからこう呼んでも差支えあるまい)池袋西武百貨店に隣接する丸物百貨店をリニューアルして誕生した。セゾングループの創業者であり、カリスマ経営者でもあった堤清二が、「百貨店とは違う物」として、パルコの増田通二に専門店ビルを作らせた。池袋駅の東口に鰻の寝床の様に連なる西武百貨店とパルコこそが、大丸心斎橋とパルコの原型であり原点である。いずれにしても半世紀の年月が経ったことに変わりはない。

 西武流通グループがセゾングループとなり、西友やパルコやファミリーマートといった流通だけでなく、ホテルや不動産へ進出して、一大コングロマリットを築いたことを覚えておられるだろうか。それがバブル崩壊とともに、一家離散し、西武百貨店はそごうと共にセブン&アイグループとなり。パルコも流転の果てにJフロントリテイリングの一員となった。限られた紙面では、これ以上伝えられない。残念だが、またの機会に譲る。日経MJ11月30日号の「トップに聞く」で、パルコの牧山社長へのインタビューを掲載している。『百貨店のアンチ極める』「常に前衛的」社内に発破というタイトルだ。同氏は25日の記事では「常にアバンギャルドであれ」と説いている。前衛的、アバンギャルドと、百貨店どころか小売にとって、およそ似つかわしくないワードである。Jフロントの好本社長がパルコに求めるモノに対し、牧山社長が、すかさず「呼応」した格好だ。大丸松坂屋に無いもの、足りないモノとして「アートやポップカルチャー」を含めた、エンターテインメント要素を取り入れ、そのコアなファン(若者層)を獲得するのが、大丸松坂屋の狙いだ。

 私見だが、心斎橋パルコは、旗艦店である渋谷以上に、「パルコ的」であり非日常性を強めている様に見える。良くも悪くも。
Jフロントが期待する以上に、トリックスターの役割を果たしていると言えるだろう。

百貨店の未来

Jフロントの好本社長は、コスト削減だけを目的として、大丸松坂屋の脱百貨店→テナント化=パルコ化を推進しようとしているわけではない。

 肝心なのは顧客にとっての「魅力ある店舗作り」である。顧客=消費者を引き付けるのは『チャーム=魅力』であり、百貨店か専門店か、の二者択一ではない。

 大丸心斎橋店は、大阪の商業の中心地に、只大きいだけの百貨店を建てて、客は楽しいのだろうか?という単純な問いに正しい解を導き出したのだろう。大阪がパルコ不在の大都市であったことも、大きいのかもしれない。
※10年前、同じ心斎橋の地に、日本一小さいパルコがあった事を、念のため付記しておく。

 玉川高島屋S・Cと池袋パルコの創業から半世紀、コロナ禍によるインバウンド需要の喪失という異常事態も、百貨店のテナント化の後押しとなった。

 百貨店はまた新たなステップを、踏み出したのかもしれない。だがそれは、自らのアイデンティティとも言える、自主編集の売場を手放し、テナントのそして東神開発やパルコといった商業デベロッパーの力を借りる道だ。ある意味「他力本願」の政策とも言えるだろう。

 現場の従業員はどう思っているのだろう。利益とコストの構造から「仕方がない」とはわかっているものの、内心忸怩たる思いではないだろうか。

 只、百貨店の未来は、髙島屋や大丸松坂屋の様な、テナント化一本やりではない。最後に、正統にして王道を行く、三越伊勢丹を見て行こう。

三越伊勢丹

 結論から申し上げると、三越伊勢丹にSC開発を担う商業デベロッパー企業があるのか?と言えば答えは「NO」だ。もちろん、テナント開発をする部署は20年前から存在する。合併前の三越に2000年に「専門館事業部」が作られた。

 立ち上げ当初の所管店舗はアルタ5店舗(新宿、サンシャイン、新潟、札幌、高松)と恵比寿三越、上大岡三越、後に、多摩センター、吉祥寺と、多くの物件を担当した。 特に、名古屋のラシックはオープン2~ 3年前から、担当するメンバーが名古屋三越から専門館事業部に出向していたという。

 2011年に三越伊勢丹が誕生し、伊勢丹からの要請?により2014年にリーシングチームは(アルタの運営チームを除き)事実上解散した。アルタチームは三越伊勢丹プロパティ・デザインに出向となり、ミーツ国分寺の立ち上げや、横浜ジョイナスのリニューアルを遂行した。

 髙島屋が半世紀前に東神開発を作り、西武が同じくパルコを作り、大丸松坂屋が引き継いだテナント開発事業に対し、三越伊勢丹は、その場しのぎの対応に終始した。

 逆に言えば、それでも三越伊勢丹は、ほぼ百貨店業態のみで、やって来れたのだ。それはそれで凄いことである。新宿のメンズ館での自主編集力が評価され、THE百貨店として、その強みを活かしてきた三越伊勢丹。自らが百貨店の王道だという自負があったのだろう。多分コロナ前までは。

 この後の50年いや20年しない内に、帰趨は決するだろう。百貨店の3強でさえ、生き残れる確率は未知数だ。テナント化は生き残り策の一つではあるが、すべてではない。各社の健闘を祈る。

連載 デパートのルネッサンスはどこにある?

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