デパートのルネッサンスはどこにある? 2023年12月15日号-82

過渡期を迎えた電鉄系百貨店

「渋谷、新宿、池袋デパート興亡史」 

2023年の総括

 2023年の、特に下半期は、セブン&アイの子会社であった百貨店「そごう・西武」のフォートレス・インベストメントへの売却を巡る「一連の騒動」を中心にお伝えしてきた。

 もちろん、その騒動の中心は、西武百貨店本店への出店を目論む「ヨドバシカメラ」が「影の主役」であり、家電量販店業界の「縄張り争い」に発展している。

 一方、全国3位(関東では2位)の売上高を誇る西武百貨店池袋本店の面積と売上が半減してしまうことによる、百貨店業界の「地殻変動」も避けられない状況だ。

 そして、その池袋西武の縮小は、早ければ2024年にも顕在化する見通しだ。

 関連して追いかけるべきニュースが多岐に亘っており、四つの項目に整理してみた。

1.記念すべきセブン―イレブン50周年の年に、小売業初の売上高10兆円を達成したセブン&アイ。そして小売業としてレピュテーションリスクを負いながらも、そごう・西武の売却を押し切り「逃げ切った」かの様に見える井坂社長。
 彼の保身にとって次の難関は、祖業であるイトーヨーカドーの処遇だ。なぜならアクティビスト(モノ言う株主)の「突き上げ」は今後も続くからだ。
 外資系のファンドも様々であり、味方の時は良いが敵に回すと手強い、というところか。

2.家電業界1位のヤマダ、2位のビックに次ぐ、ヨドバシカメラHDは、悲願の池袋駅への出店を果たし、売上1兆円達成に加え、業界1位の座を手中に収めようとしている。
 ヨドバシにとって池袋駅への出店は、自社の売上プラスが、そのままライバル2社の売上マイナスに直結するビッグチャンスである。ターミナル駅前にはデパートでなく 「家電量販店」という時代が到来し、家電は主戦場を郊外から都心に移した感がある。

3.池袋西武とは事情が異なるが、渋谷東急(東横店、本店)、新宿小田急、京王など、電鉄系百貨店の閉店、縮小が止まらない。
 そして、大手私鉄各社は自らの起点であるターミナル駅の再開発において「デパート業の廃業」を示唆している。
 沿線の不動産価値第一の私鉄各社にとってデパートよりも、今後はJR(ルミネ、アトレ)の様なショッピングセンターが主流となるのか、見極めて行きたい。

4.池袋西武による61年ぶりの「ストライキ決行」により、極端な株主資本主義に傾きつつあった日本で「労働者の権利」を見直す機運が高まっている。
 「30年間給料が上がらない」閉塞感から脱却し、真の意味での「働き方改革」を成し、この国のSD G s を推し進めるフェーズの到来を歓迎したい。
 そして今回の事を、皆が会社や仕事の「意義」を考えるきっかけとしなければならない、と思う。

 前号に掲載した、そごう・西武労働組合の寺岡泰博委員長のインタビューから判ったのは、あまりにも当然すぎて、忘れかけていた「労働者の権利」を蔑(ないがし)ろにしてはいけない、というこの一点だ。

 市場の論理や株主の利益と同じく、労働者の権利を含めた「公益」の概念を忘れては、商売(ビジネス)はたち行かない事を、我々は誰しもが、再び肝に銘じる必要があるのだ。この事は、特に企業や経団連のトップの方に申し上げておきたい、

 前段が長くなって恐縮だが、ここからが本題だ。

ターミナル3駅

 山手線の西側に連なる、巨大ターミナル駅、渋谷、新宿、池袋の再開発が始まっている。

 全国トップの乗降客数を誇る新宿と、北の玄関(と言うより埼玉への入口か)池袋、そして南の玄関(こちらは神奈川というより横浜直結の)渋谷、の3駅だ。

 再開発については、本コラム10月15日号「そごう・西部売却の先にある『百貨店の未来』」の中の「閉店連鎖と再開発」の項でも言及している。ご参照いただきたい。

東急と西武

 先ずは、日本各地で開発競争を繰り広げた、東急と西武の興亡史から見ていこう。

 日本有数の富裕層エリア( 代官山、自由が丘、田園調布) を抜けて横浜に至る東急東横線や、新たな富裕層を育んだ田園都市線を含め、沿線不動産の市場価値を高めてきた東急の戦略は、私鉄とターミナル駅のブランド価値形成のお手本と言って良いだろう。

 この辺りは「昭和の歴史」を遡る話になるが、ちょっと紙面を割かせて貰おうと思う。関東の観光地から、渋谷の商業拠点に場所を移して、長い間「争い」が続いた。 

 東急と西武の創業者同士の「箱根山戦争」については、以前にも本コラムで言及している。

 「強盗(五島)慶太」と「ピストル堤(康次郎)」という昭和の傑物が暗躍する昭和初期の物語は、(渋沢栄一の様な大河ドラマになるのかどうかはわからないが)ここでは限られたスペースではあるが触れておこう。

※用語解説

箱根山戦争は、第二次世界大戦後から1968年にかけて堤康次郎率いる西武グループと安藤楢六率いる小田急グループ及びそのバックに付いた五島慶太の東急グループの間で、20年以上にわたって繰り広げられた箱根を舞台とした観光輸送シェア争いの通称である。巨大コンツェルン同士の衝突は熾烈を極め、舞台となった箱根山の名を冠して「戦争」と呼ばれた。1953年頃からの西武傘下の伊豆箱根鉄道と東急傘下の伊豆急行による、伊豆半島の東海岸を舞台とした「伊豆戦争」も一緒に語られることが多い。

渋谷戦争

 1967年からは、東急の牙城である渋谷に、西武百貨店が出店したことにより、第二次東急対西武の戦争が勃発した。

 本コラムの本題に叶う、電鉄系デパート同士の直接対決だ。

 渋谷駅直上への東急デパート東横店(東横百貨店)の創業は1934年と古く、1956年には映画館やプラネタリウムなどが入った複合施設東急文化会館が現ヒカリエの場所に造られた。ここまでは完全に東急寡占時代であり「渋谷は東急の街」であった。

 本格的な渋谷戦争の開戦はオリンピックの後、1967年に駅から離れた場所に東急百貨店本店ができ、翌1968年に西武百貨店渋谷A・B館が完成した。どちらも世田谷周辺の上流階級の婦人をターゲットにしていた。ここまではデパート同士の戦争であった。 

 そして次に若者にターゲットを絞った渋谷パルコパート1が1973年にオープンし、渋谷を「若者の街」へと変えていった。この時点で「公園通り」という渋谷の僻地を若者ファッションのメッカに変えた功績を評価し、西武系が優勢だった、としておこう。

 公園通りとはPARCOがイタリア語で「公園」を意味していたからであり、1970年代にこの坂は、NHKや渋谷公会堂に抜ける「区役所通り」と呼ばれていた。

東急の逆襲

 西武の後塵を拝する状況を打開すべく、東急は1979年には東急百貨店本店通りと道玄坂に挟まれた三角地帯にファッションコミュニティ109(現在のSHIBUYA109)を開業。前年の1978年には新業態の東急ハンズ渋谷店を開店し、一矢を報い、東急と西武の「渋谷戦争」は続いた。1981年には渋谷パルコパート3が誕生している。

 もちろんマルイや小さいながら家電量販店も存在はしたが、大枠で渋谷の百貨店、ファッションビル(当時はこの呼び名が主流だった)の時代はこんなイメージであった。

 東急と西武が競い合ったおかげで、歩きにくい坂道の街を、新宿に並ぶ「繁華街」として成長させ、日本有数の「ショッピングの中心地」に押し上げたとも言える。
※1960~70年代の渋谷では丸井対緑屋の割賦(クレジット)デパート戦争もあった。現金での購入を定価の5~3%引きして競い合った。

 尚、緑屋は現クレディセゾンの前身である。東急対西武の話はきりがないのでこれくらいにしておく。

電鉄と老舗

話を本題に戻そう。

 各ターミナル駅を起点とする大手私鉄は、それぞれ渋谷駅は東急、新宿駅は小田急と京王、池袋駅は西武と東武である。

 それら有力電鉄会社は、都心と郊外を結ぶ「ドル箱路線」を擁し、その起点となる主要駅の上に、自らの牙城である百貨店を築いた。それが電鉄系デパートだ。

 銀座や日本橋を拠点とする、三越や髙島屋、松坂屋といった老舗百貨店とはその出自からも一線を画する。老舗百貨店は、呉服屋系とも呼ばれ、元々は呉服屋として着物を商いしていたが、時代とともに洋装や用品に品揃えを広げ、ファッション( アパレル) から家具、雑貨、食品まで、顧客の欲しい物すべてを品揃えしていった。

 これが文字通りの「百貨店」の誕生だ。

 百貨店は「正価販売」が基本であり、その代わりに「品質保証」を付与した。○○さんで買った物は「安心」という基準を確立し、贈答などにも用いられ、これが今日「包装紙」に代表される老舗の「ブランド力」を培ったとも言える。

 顧客は親近感と安心感、そしてその「ブランド力」を信頼し支持した。老舗側も「先義後利」の考えから、自らの利益に先んじて、顧客の利便を優先したのだ。

 これが本誌の唱える「公益」の理念の大元(おおもと)であり、老舗デパートのDNAと言っても良いだろう。

私鉄の思惑

 電鉄系は老舗デパートの「顧客(の要望) ありき」ではなく、自らが持つ沿線の価値を上げるために、起点駅に百貨店を造ったのである。

 老舗の様に「顧客を店舗に呼ぶ」のではなく、「顧客を店舗のあるターミナル駅の沿線に住まわせる」ためにだ。これは東京だけでなく、大阪の阪急、阪神や名古屋の名鉄、近鉄も同様である。

 それでは、電鉄各社はなぜデパート業を選択したのかと言えば、先に述べた様に「沿線の価値を上げる」ためであり、当時は百貨店こそが駅や沿線の価値を高めてくれる「最適な装置」であったからだ。

 電鉄系は、老舗百貨店の培ってきた「信頼のブランド」戦略を応用した訳だ。もちろん、老舗同様に、長年商売に切磋琢磨してきたことに間違いはなく、電鉄系が呉服系に「明らかに劣っている」ポイントは、ほぼないというところまで来ているのだ。

顧客と新規開拓

 もし、呉服系の老舗デパートにアドバンテージがあるとすれば、高齢者となったメイン客層をフォローし続け、顧客との関係を「磨き」続けたからであろう。

 だが、百貨店の「大閉店時代」が到来して久しいのは、この「顧客第一主義」一本槍の政策が、裏目に出てしまった証左でもある。 

 なんとも皮肉なことだが、老舗、電鉄系に限らず、デパートにおける新規客の開拓は、この30年間に限っては、厳しい戦いであったことは、間違いないだろう。

 現在の顧客を維持しつつ、新たなお客様を顧客化することは難しい。その証拠に、老舗百貨店が地方の支店を次々に閉店し、東京都心の電鉄系も、次々に本店を含めた旗艦店を閉店しているからだ。

 これも10月15日号で触れているが、東急や小田急、京王は再開発後の「百貨店としての再開」を明言していないからだ。彼ら大手私鉄にとって、衰退産業である「デパート業」に固執する理由は全くないのではという推測は間違っていないと思われる。

デパートという選択肢

 これも何度も言及していて恐縮だが、呉服系の老舗百貨店であっても、同様の動きがみられはじめている。銀座松坂屋が「GINZA SIX」となったのが代表例であり、髙島屋が立川や二子玉川といった郊外だけでなく、超都心である日本橋店や京都店をショッピングセンター化したことからも明らかである。
※髙島屋は子会社の東神開発が、日本の郊外型ショッピングセンタービジネスの草分けとして、1969年に二子玉川に髙島屋S.C.を開業して以来のノウハウがある。

 他の老舗百貨店よりも、選択肢が多く、SC化へのハードルも低かったとも言える。

 これらは数少ない「成功例」であり、新宿や池袋や千葉の三越を例に出すまでもなく、老舗百貨店が家電量販店に飲み込まれてしまう例は枚挙にいとまがない。

西武はアウトロー

 三越を例にとるのは大変失礼かもしれない、なぜなら、三越跡の家電化は、周辺の様々なステークホルダーから、大きなクレームを受けたわけではないのだから。

 それに比べ、セブン&アイによるそごう・西武の売却は、とてもじゃないが「最良の選択」とは言い難い結果に終わった。(と言うか「経過」を辿っていると言うべきか)

 もう一つ、西武百貨店が単純というか純粋な「電鉄系」デパートではないことは、本コラムの購読者諸氏にとって「言うまでもない」話であろう。電鉄から生まれたものの、その電鉄から「独立して」全国ナンバー2の百貨店にまで上り詰めたのだから。

 西武は電鉄系デパートの「アウトローか一匹狼」とでも言うべきか。念のため申し添えて置く。

西武の分岐点

 前述した西武の創業者である堤康次郎は、東急の五島慶太が長男である五島昇にすべてを譲ったのとは違い、正妻の子である義明に電鉄や不動産、ホテル業などを束ねる鉄道グループを任せ、義明の義兄にあたる清二に百貨店を中心とする(流通グループ)を継がせた。
※清二は正当な後継者として、義明に鉄道を譲り、自分は流通で良いから、と康次郎に進言した、という逸話も残っているが、定かではない。

 当初は同じ西武グループとして連携していたものの、清二は「西武流通グループ(後のセゾングループ)」を立ち上げ、義弟堤義明の「西武鉄道グループ(後の西武ホールディングス)」とは「縁もゆかりもない」地方にまで、西武百貨店を「行き渡らせた」。
※これも逸話だが、清二は、百貨店の運営に鉄道というバッグボーンは必ずしも必要ではない、ということを、自ら証明したかったのかもしれない。

 東大出のエリートであると同時に、自らの「妾(めかけ)の子」という出自を意識したことが影響していたのかもしれない。筆者の憶測かもしれないが。

衰退の歴史

 誤解を避けるために、初めに申し上げるが「だから鉄道とデパートを両方運営していた東急グループは残り、分離した西武グループは衰退してしまった」という話ではない。

 「分離して、デパート一本で経営をしたからこそ、セゾングループは急成長をしたのだ」という話だ。たとえそれがバブル期の「見果てぬ夢」だったとしてもだ。

 最盛期である1980年代を経て、1992年には全国32店舗あった西武百貨店であるが、(因みにそごうのみで28店舗)2003年にミレニアムリテイリンググループ発足時には、そごうと合わせても28店舗となり、2023年現在は、そごう・西武計で10店舗にまで減少している。

 セブン&アイ傘下であった20年間は、結果的に店舗数を1/3に減らすリストラの歴史であった。

 これはそごう・西武に限った話ではなく、全国の百貨店が同じように衰退を続けていた訳であり、このことをもってセブン&アイの責任というのは当たらない。もちろん再生させる道が「皆無であった」という訳でもないだろうが。

セゾン文化

 希代のカリスマ経営者であった堤清二が残したものは、西武百貨店以外に、西友、クレディセゾン、パルコ、無印良品、ファミリーマート、LOFT(吉野家も?)等々。堤清二は百貨店の運営に「文化」の二文字を持ち込んだ時代の寵児であった。もちろんワンマンな一面もあり、放漫経営であったのでは、と言われれば否定はできないが。いずれにしても最盛期には売上高4兆円の企業グループを作った功績は、認めなければならないだろう。

 前号(12月1日号)のそごう・西武労組の寺岡委員長もインタビューの後半で言及されていたが、確かに当時の時代背景があったからではあると思うが「セゾン文化」と呼ばれる「新しい文化を作る」ムーブメントの様なものを感じていた、という。

 寺岡委員長は、そうした「セゾン文化」への回帰、と言うと大げさだが「見直し」の気運がある過渡期を迎えた電鉄系百貨店とも話していた。

無印良品の商品開発のコンセプトや、パルコのアートやアニメ等、新しいコトへの取り組みなどに、その一端を感じることができる、と思うのは、筆者の「判官贔屓(はんがんびいき)」なのかもしれないが。

西武鉄道も

 皮肉なことに、西武鉄道やプリンスホテル、コクドなど、本体である「西武コンツェルン」を率いた義弟の義明も、2004年の総会屋への利益供与を皮切りに、株トラブルから西武鉄道は上場廃止に追い込まれた。2005年には義明自身が東京地検特捜部に逮捕、起訴される事態に至った。

 そして、結果的にすべての西武グループは堤家の手を離れたのだ。

 余談中の余談だが、当時、堤義明は日本全国に4500万坪もの土地を所有し、バブル期には時価総額12兆円で「世界一の金持ち」 と称されたこともあった。

 大事なのは結果ではなく、その過程であり、事業家ならば「世の中に何を残したのか」で評価されるべきだと思う。

 西武鉄道、そごう・西武とも今も「健在」だ。今後はわからないが・・

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