デパート破産 第12回 ~山形県からとうとうデパートの灯が消えた~
2022年4月の終わりごろ、私の本が書店に並んだ。
大沼デパートについて書こうと着想を得てからおよそ1年半が経っていた。その間、コロナ禍で料理店はまともな商売にならなかったが、国や自治体からの給付金があったので、店を閉めたままでも会社がつぶれることはなかった。
つまり1日のほとんどを資料収集や執筆に充てられたのだ。コロナ禍ではさまざまな面で苦しい思いをしたが、その一点においては稀有な環境を与えられた。
さて、振り返れば動機は怒りだった。大沼デパートの予告なき閉店によって債権者となり、翌日の商品回収では冷遇を受けた。
—なぜこんなことになったのか。
その気持ちが私を駆り立てた。だが大沼の年表を眺め、図書館に保管されている昔の新聞や書籍で足取りを追っていくうちに、負の感情は消えていった。
私はドラマを見たのだ。大沼が荒物屋として商売を始めた1700(元禄13)年から、終焉を迎えるまでの約320年間、山形の街は膨大な対立と挫折を繰り返しながら変容してきた。
端役だった大沼は、第2次世界大戦後から主役として輝き始め、やがて老いた脇役を演じるようになる。そのさまに感情移入を促されたのだろう。私は怒りなどすっかり忘れ、バッドエンドだと分かっていながらも、かつての大沼に声援を送っていた。
出来上がった本は「山形の商業史」とも呼べる内容だった。執筆を決心した時に頭に浮かんでいたのは破綻の真相に迫るルポタージュのようなものだったので、大きな転換といえる。私の動機は「怒り」でなく、「物語の共有」になっていたのだ。
有名なミュージシャンが公演をすることはほとんどない、人口は仙台や首都圏に吸収され続けている、ついにはデパートを失った。そんな山形にも、映画のようなストーリーが埋まっている。それを多くの人に広めてみたくなった。
皮肉なものだ。多感な時期にインターネットの洗礼を受け、体だけを山形に置いて、心はあらゆる土地へと自由に飛び回った。雑多な都会に寛容さを見つけ、硬直した田舎をさげすんだ。そんな私が、山形の魅力について語りだしたのだ。
地元の新聞、テレビを中心に取材依頼が相次いだ。そこで私に与えられた肩書のは「故郷を愛し自費出版をした人間」というものだった。
おそらくここからだろう。私は自著の取り扱われ方に違和感を抱き始めた。
正しく伝えるのは難しいものだと思う。私は元から故郷を愛していたわけでなく、故郷に埋もれた物語によってようやく愛着を持ち始めただけの人間だ。微妙な違いに思えるかもしれないが、立場は全く異なる。
また自社内に出版部を立ち上げ、流通を他社に委託することで、出版を事業として成立させるための地盤を整えてもいる。つまり仕事として書き、魅力的な物語を商品としたわけで、個人の「自費出版」ではないのだ。それを説明しても、上がってくる記事たちは「自費出版をした渡辺さん」との紹介だらけだった。
これも、大沼が落としていった「ドラマ」なのだろうか。市民にはさも熱心にデパートへ通っていたかのように語らせ、立ち上がった郷土史家が私財をはたいて歴史を綴ったかのように演出する。見栄えはするのだろうが、実際に起こっている危機は覆い隠されてしまう。
私が著作に『さよならデパート』の題を付けたのは、執筆を通して「従来型のデパートは終わった」という分析をしたからだ。物語に魅せられたのは確かだが、それとデパート再興を望むのとでは心情が一致しない。表紙には笑顔の女の子が灰色のデパートに背を向けている。彼女の目線の先にあるのは、イオンモールという設定だ。本を開く前から、私の結論は語られている。
だが、そんな現実など必要とされていなかった。大沼デパートは相変わらず巨大な死骸のまま、住民たちにノスタルジーの線香を焚かせていた。