デパート破産 第8回 ~山形県からとうとうデパートの灯が消えた~

 幸いにも、という表現は適切ではないだろう。だが大沼デパートは、間もなく襲ってくる「コロナ禍」に巻き込まれることなく、その生命を終えた。

 一方、私はコロナ禍によって大沼により接近してゆく。

 山形市の日常に恐怖が差し込んだのは、2020年3月の終わりから4月にかけてだった。県内で最初の感染者が見つかると、間もなく山形市内でも1人目の報告が上がる。今振り返ると「たった1人」なのだが、当時は市民をおびえさせるのにじゅうぶんな出来事だった。

 私の料理店は完全予約制で営業をしている。首都圏を中心に感染が広がってきたころから予約は減っていたが、それが山形で影をちらつかせた途端に手帳がみるみる白くなっていった。

 かかってくる電話は全てキャンセルの連絡で、新たな予約など入らない。私は残ったわずかな仕事を済ませ、5月からの休業を決めた。いや、仮にそうしなくても実際の状況は同じだっただろう。

 給付金が出るという記事は目にしていたが、そもそも売り上げがなければ一時しのぎにしかならない。数ヶ月もすれば好転するだろうという楽観もあったが、布団に潜るとやはり先行きの不安に胸を支配された。

「大沼が閉店セールを開催する」

 そのニュースを目にした時は、頭が混乱した。どういうことだ。詳細を追ってみると、商業施設の再生を手掛ける東京の会社が主導だと分かった。1月に突如封鎖された店舗を開放し、かつての従業員を呼び戻して営業するのだという。成果によっては、翌年夏に本格的に大沼を復活させたいという意気込みも添えてあった。

 私の直感は「怪しい」だった。大沼の末期について、経営再建をうたうファンドに翻弄されたという印象を持っていたので、余計にそう傾いたのかもしれない。とはいえ、世話になった人たちにあいさつもできぬままだったので、もし売り場に知った顔があるのだったら、と予告された開催初日である2020年7月15日を待った。

 その間にも、かつての日常は大きく姿を変えてゆく。皆がマスクで顔を覆い、人と接近することを恐れ、スーパーやドラッグストアからはトイレットペーパーが消えた。空いた棚には殺伐とした空気が漂っていた。

 夜の店で飲食をした人によって感染が広がったという切り口の報道も多く、私の商売は社会の悪者になった。実際にそう見られていたのかは分からない。味方も多く居たことだろう。だがそう思い込んでしまうほどの窮屈さが毎日続いた。

 感染拡大防止のために、山形では、飲食店の従事者または客の中に陽性者が見つかった場合、かつ第三者へうつした可能性が考えられる場合は、その店名を公表した。当該店舗の利用者へ呼び掛け、早めに検査をするためだ。実際に報道やSNSで名前をさらされた店舗の中には、閉業を選んだ者も多い。

―もうこの商売は続けられないだろう。

 夏の気配がしてきたころ、私はそう考えていた。もはや周囲が営業を許さないからではなく、飲食業に感じていた魅力のほとんどが奪われたからだ。にぎやかな乾杯も、親密な会話も禁じられる世界になってしまった。

 ではどう生きていこうと悩んでいたら、大沼の閉店セールが近づいてきた。

―出版はどうだろう。


 夏の青空から発想が降りてきた。

 私は以前にも、店のある「小姓町」にかつて存在したキャバレーや遊郭を題材に本を書いている。2018年を最後に活動が途絶えていたが、ここでもう一度、そちらへ舵を切ったらどうか。

 題材はもちろん「大沼デパート」だ。搬入口ですれ違った社長への憤りも残っている。閉店セールが始まれば、内部のことをよく知る幹部にも再会できるかもしれない。動機や材料はじゅうぶんだ。

 皮肉にも、私はこの時になってようやく大沼に出掛けるのが心から楽しみになった。