渡辺大輔のデパート放浪記 – ペンを捨てよ、街へ出よう – (第5回 郡山その3)

 あと1週間早く訪ねていればと悔やんだ。見上げた木はもはや色彩を失い、薄曇りの空を透かす。反対に、その足元に花びらの点描を広げていた。

 駅から西に3㎞ほど離れた開成山公園は「観光地もない」と自嘲の聞かれる郡山でも「桜の名所」として知られている。広大な敷地には1300本もの桜が並び、その中には日本最古のソメイヨシノもあるという。

 奥には神社が構える。猪苗代湖から水を引く事業の際に、開拓者たちの心を支えた神社だそうだ。そこを中心に憩いの場として整備されたのが、開成山公園の起こりらしい。まさに「郡山の核」と呼ぶべき場所だろう。

「もうね、夕飯なんて何にすればいいか分かんない。毎日、毎日」

 野外音楽堂のステージは空だったが、客席にぽつんと女性の2人組が座っている。70代前半だろうか。ちょうど昼時で、持参した弁当をバッグから膝の上へと移したところだった。愚痴をこぼし合い、それでいて愉快そうに笑っている。

 私は生来の内向的な性格を放り投げ、気さくな通りすがりを装って2人にあいさつをしてみた。互いに散った桜を残念がってから、うすい百貨店の話題に触れてみる。「昔はね、あそこで何万円もする服を買ってたけど」

 流行のうつろいが激しくなるにつれ「いいものを長く」よりも「安いものをいろいろ」というお金の使い方に変わったという。

「今は、年に1回行くか行かないかよね。ほら、北海道物産展。あれは好きだから」

 商店街の駐車場は不便だとか、郊外のショッピングモールでの買い物が多いだとか、やはりそういった話が続いた。

「この公園で、オノ・ヨーコが歌ったらしいですね」

 私が足を運んだ一番の理由は、かつてここにオノ・ヨーコを連れてきた、ある男の残影を探すためだった。

「……え? いつ? だいぶ昔じゃないの」
 2人は弁当のふたに手を置き、不思議そうに顔を見合わせた。

 小間物屋「近江屋」の息子として郡山に生まれたその男は、名を「佐藤三郎」という。東京での修業を経て家業を継いだ三郎は、近江屋を若者向けの洋品店に鞍替えした。商売は順調だったが、1970年、ハワイ旅行の最中に人生が変わった。

 ただ冷房を求めて入った映画館だったという。スクリーンには『ウッドストック』、ニューヨーク郊外の農場で行われたロック・フェスティバルの映像が流れていた。そこでの体験が三郎を震わせる。

「皆で何かを作り出そうというエネルギー。新しい若者たちの時代の到来を見せてもらった」

 三郎は『A E R A 』(1996年7月8日号)の取材でそう振り返っている。

 帰国して髪を切るのをやめた。長髪を揺らしながら、ファッションショーを主催したり、ミニコミ誌を創刊したりと、自らを発信する活動に熱中してゆく。脳裏にあったのは、あの時の映像だった。

 ——郡山でウッドストックをやろう。

 頭に浮かんだのがオノ・ヨーコだった。ビートルズが解散して4年経っていた。もはや雲の上のような存在だった彼女に出演を依頼するため、レコード会社の知り合いを頼って会いに行った。「日本に帰るたびに、緑が少なくなっている」

 彼女の嘆きに共鳴した三郎は「街に緑を、若者に広場を、そして大きな夢を」のテーマを掲げ「ワンステップ・フェスティバル」の実現に突き進む。結果として1974年、矢沢永吉や沢田研二、山下達郎などそうそうたる顔ぶれがステージに立つことになった。出演バンド約40組の全てがノーギャラだ。かつて暴力に荒れた郡山は、再び音楽による団結を宣言した。

 ただし裏側まで順調だったわけではない。開催前にはロックを危険視する警察やPTAが声を上げた。反対ムードは熱を帯び、中高生は参加禁止を言い渡され、「街から処女がいなくなる」と書かれたビラまで配られたという。

 金銭的な問題もあった。バンドはノーギャラとはいえ、それ以外の経費が1億2千万円ほどかかった。対して収入は4千200万円で、赤字は三郎の借金となった。
 店のビルを売却しても足りない。その筋の人間からの取り立てもあった。

「逃げようとは思わなかったよね。郡山が好きだったからね」

 そう語っていた三郎は、2016年にこの世を去った。

「そんなイベントがあったって、聞いたことがあるかも。ねえ」

 昼食をじゃましたことを詫びて、再び歩きだす。当時フェスティバルの会場となった開成山公園内の陸上競技場は、改修工事中のようだ。思わず頭を少し下げ、横を通り過ぎる。

 郡山の風景は今や、使命に燃えた人々の映画のように感じられた。

 ——デパートも何かと闘ってきたのだろう。

 私は自らの足を、うすい百貨店に向けた。

(続く・全4回 郡山その1