渡辺大輔のデパート放浪記 – ペンを捨てよ、街へ出よう – (第4回 郡山その2)

 「今はさすがにないけどね。昔は卒業式の日になると、高校の前に迎えの車が並ぶのよ。そういう人たちの、ほら、いかついのが。乗ってく子だって、親がそうってわけでもない。先生の息子だったりね」

(ある商店にて)

 作家の大江健三郎は、昭和30年代後半の郡山を「じつに雑ぱくで、奥行のあさい、新興都市の索漠たる感覚」と表現した(『朝日ジャーナル 7月8日号』1962年、朝日新聞社)。にぎやかではあるものの、統一感や味わいに物足りなさを感じたらしい。「奥行のあさい」とは、歴史的背景を指してのことだろうか。

 ―歴史もない。観光地もない。名物もない。

 中華料理屋で聞いた言葉にも重なる分析だ。

 もともと郡山は、寂しい宿場町だったという。何より水利が悪く、そのため耕地もまれだった。明治元年の人口は5千人足らずで、発展の兆しすら見えなかった。

 急伸の皮切りは明治15年だ。莫大な費用と労力を投入して、西に位置する猪苗代湖から延々と水を引く工事が完成した。豊富な水は荒れ地を肥やすばかりでなく、発電所を生み、工業用水としての活躍をいとわない。かくして郡山は、工業都市への変貌を約束された。

 「あたしが子どもだった昭和のころはね、街のあちこちで発砲事件が起こってた。そんなのしょっちゅうだから、怖いとも思わないのよね。
親からは『駅前をうろちょろするなよ』なんてしつけられてたけど」

 成長と引き換えに差し出したのは治安だった。

 2200人もの従業員を抱える「国鉄郡山工場」をはじめ、あまたの煙突を並べた街だ。当然ながら外からおびただしい人を流入させる。終戦時の昭和20年に5万4千人まで増えていた人口は、わずか5年で7万人に達した。その中には、工都の活況に目をぎらつかせる暴力団たちもあったのだ。

 抗争に荒れる郡山は「東北のシカゴ」と呼ばれた。繁華街には組員がうろつき、彼らと肩が少し擦れようものなら血が舞う。ついには市議会に親分2人が当選することになった。

 しかし郡山は負けなかった。「青年」と呼ばれる世代が手を取り合い、進駐軍や軍政部の協力をあおいで市議会から親分を追放する。また文化活動にも力を入れた。音楽によって市民の団結を促し、暴力に屈しない街を目指したのだ。

 この時期(昭和30年代)の郡山で起こった出来事を基に撮られた映画がある。デビュー間もない吉田拓郎も出演する『百万人の大合唱』だ。暴力団の執拗な嫌がらせをはねのけて、市民音楽祭を成功させるという物語だ。DVDもあるそうなのでインターネットで探してみると、アマゾンには5万円で出品されていた。激しいめまいが起こる。それに耐えながら、製作に関わったという「郡山西ロータリークラブ」に電話をしてみた。「まだ在庫があるので、定価でお売りしますよ」

 めまいが治った。

 訪ねてみると、定価より安く譲ってくれた。たまに吉田拓郎のファンが買いに来るのだという。「あなたもそうですか」と質問されたが、ここまで足を運ぶ方々と肩を並べるのは失礼な気がして、ぎこちない笑顔を返すだけで済ませてしまった。

 さて、作中には「うすい百貨店」も登場する。まだ「第1」と「第2」があったころの映像だ。屋上の観覧車を背景に、女性従業員たちが合唱の練習に励んでいる。もちろん市民音楽祭に参加するためだ。

 ―昔はね、ほんとに地元に密着した店だったんだよ。

 中華料理屋で聞いた言葉がまたよみがえった。

 それだけではない。「エプロンを着けたまま、サンダル履いてね、気軽に行けるような店だったのよ」

 かつてのうすいを知る人々は、示し合わせたようにそう語っていた。デパートの持つ「憧れの場所」という性質に似合わない思い出だと感じていたが、ここに至って腑に落ちる。

 ―皆、目的を共有した仲間だったのだ。

 確かに歴史は浅いのだろう。城もない。繁華街は今も雑然としている。だが私はこの街に「結束」という名の熱い地盤を見た。

 間もなく知る。

 市民音楽祭を経て昭和40年代、この地盤を強固にする事件が起こった。 きっかけは、ある男の目覚めだ。

(続く・全4回 郡山その1