連載小説 英雄たちの経営力 第1回 織田信長 その2
南蛮画の隆盛と「四都図」から学んだ信長

十六世紀という信長や秀吉の生きた時代は、スペインやポルトガルの世界進出が本格化し、世界の最東端の日本にも到達した大航海時代の最盛期だった。彼らが大海に漕ぎ出したのは交易による利潤を求めてのものだったが、交易とセットになったイエズス会の教線も日本に伸びてくることになる。
宣教師たちはキリスト教を布教すると同時に、欧州文化( 南蛮文化) や科学の先進性を伝えることで、日本をキリスト教国化しようとした。
こうしたことから欧州の文物が日本に流れ込んできた。とくに欧州の様子が描かれた絵画は日本人に衝撃を与えると同時に、異世界への憧れをかき立てるものだった。
絵画を中心にした異国趣味は盛り上がりを見せ、天正十五年( 一五八七) に豊後国で布教活動に携わっていた司祭の一人は、本国へ出した手紙の中で「日本人は欧州の武人や戦いの絵を好む( ので大量に送れ)」と書き残したほどだ。
しかし、日本に入ってくる本場物には限りがある。そのため狩野派までもが欧州絵画を模写したり、モチーフとしたりしていたほどだ。それでも武将や有徳人( 金持ち) たちの注文は引きも切らない。そのためイエズス会は、天草に画学舎( セミナリオ工房) を造って日本人洋画家を養成し、いわゆる南蛮画を量産した。
こうした南蛮画の中に、「四都図」という八曲一隻の屏風があった。現存品は画学舎で学んだ日本人画家が描いたものだが、手本となる原画があったのは間違いない。
ここで描かれている四都とは、イスタンブール、ローマ、セビリア、リスボンで、とくにローマの巨大さが際立っている。
当時のヨーロッパでは、イスパニア( スペイン) のフェリペ二世が王統の絶えたポルトガルを合法的に併呑することで( 一五八〇年)、セビリアとリスボンという二大港湾都市を支配下に置き( セビリアは内陸部の都市だが河川を使った交易都市と言える)、欧州の交易の約半分を独占していた。その結果、フェリペ二世は欧州で並ぶ者のない富と権勢を手にし、「欧州半国の王」と呼ばれた。
この屏風の原画は、年代的に信長に献上されていた可能性がある。もしそうだとしたら、信長は強い興味を示したのではないだろうか。
では信長は、何を考えていたのか。
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『黒南風の海 – 加藤清正』や、鎌倉時代初期を描いた『夜叉の都』、サスペンス小説『横浜1963』など幅広いジャンルで活躍
北条五代, 覇王の神殿, 琉球警察, 威風堂々 幕末佐賀風雲録 など。