昭和24年10月創刊

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連載小説

連載小説 英雄たちの経営力 第1回 織田信長 その1

 今回から「英雄たちの経営力」と題し、歴史上に傑出した業績を残した英雄たちを取り上げ、その成功の秘訣を紹介していきたいと思う。

信秀と信長

 織田信長は天文三年(一五三四)、尾張国の那古野城ないしは勝幡(しょばた)城で生まれた。
室町時代の武家社会で、その出自は必ずしも恵まれたものではなかった。というのも信長の織田弾正忠(だんじょうのじょう)家は、尾張守護・斯波(しば)氏の守護代・織田大和守家の三家老(清須三奉行)の一つにすぎなかったからだ。

 しかし信長の父の信秀は有能なことこの上なく、主君の織田大和守家を支えつつ、自らの勢力を蓄えていった。やがて信秀は尾張国の南半分を手中にすることになるが、それができたのは財力によってだった。

 当時の濃尾平野は関東平野に次ぐ広さで、肥沃な耕地が広がっていた。だが地生えの国人たちの勢力が強く、いかに軍事力を有していても、国人たちの所領を奪取していくには、労力と時間がかかりすぎる。

 農民たちは、その土地の支配者の国人たちと強い絆で結ばれているので、力ずくで領国を拡大しようとすると、それなりの代償を払わねばならなくなる。たとえ国人たちを倒せても、農民たちが逃げ出して農地が疲弊してしまえば、そこから富は生まれない。

 つまり土地というレッドオーシャンを徐々に切り取っていくのには時間がかかり、やがて寿命は尽きてしまう。現に信秀は当時としても若い四十二歳で死去した。

 信秀が尾張半国の領主になれたのは、ブルーオーシャンすなわち伊勢湾交易網と木曽川水運を支配下に置くことができたからだ。

 戦国時代は農業生産性が飛躍的に向上し、商品流通が急速に活発になった時代だった。信秀の場合、東国から伊勢湾に入ってくる余剰米を自領の港の熱田や津島で陸揚げさせ、畿内で売りさばくことで莫大な利益を上げた。つまり東国の農作物が太平洋水運を使って伊勢湾に入り、水揚げされる港が信秀の支配している津島や熱田になるという仕組みだ。もちろん交易の利は商人のものだが、「関銭」という関税収入や「津料」という港湾利用税で、信秀の懐は豊かになっていった。むろん港湾整備や海賊退治などの役割りを果たすことで、商人たちは安心して熱田や津島に寄港したのだ。

 こうして財力に物を言わせた信秀は、戦わずして国人たちを傘下に収めていき、瞬く間に尾張半国を制した。

 信秀の経済力を示すものとして、伊勢神宮に移築資金七百貫文を寄付したり、禁裏修理代として朝廷に四千貫文を寄進したりということが記録としても残っている。一貫文の価値が今でいうと十万円くらいなので、四千貫文といえば四億となる。つまり、信秀はとてつもない資金力を持っていたことになる。ちなみに正親町天皇が即位した際、毛利元就が寄進したのが二千貫文なので、当時四カ国を支配していた元就を上回る財力を、信秀は有していたことになる。こうした交易重視の考え方は、信長に引き継がれていく。

交易拠点を重視する信長

 信長は海上・湖上交易に強い関心を示した。上洛の途次に琵琶湖水運の要衝・大津を押さえたり、上洛してすぐに瀬戸内海水運の拠点港・摂州堺を支配下に置いたり、大坂から本願寺を追い出そうとするなどしたのも、父信秀の勢力拡大を見て育った信長には、富を生み出すのは土地ではなく港だという認識が染み付いていたからだろう。

 土地が富を生み出すためには、管理の難しい農民を統治せねばならず(当時は一向一揆などが絶大な力を持っていた)、信長にとって土地から上がる収穫を利益にするためのブロセスは面倒でならなかったはずだ。それゆえ港を押さえるだけで入ってくる「関銭」や「津料」は魅力的だった。

 後に秀吉が大坂に本拠を構えたのも、信長の構想に倣ったというのが定説となっている。
現に信長は本願寺から大坂を奪うために十年余という貴重な歳月を使い、それが足枷となって、天下を取る前に死を迎えねばならなかった。それだけ信長は、交易拠点に執着していたことになる。

伊東 潤
矢野 元晴