渡辺大輔のデパート放浪記 - ペンを捨てよ、街へ出よう - (第22 回 富山編その4 )

何とも身の縮む晩酌の始まりだ。生ビールが手元に届いてからしばらく、私は料理の注文をできずにいた。
割烹着姿の女性はジョッキを持ってきてくれた時もそっけなく、調理場の板前たちも相変わらず難しい表情で包丁や鍋を扱っていて、私に声を掛けられるのを拒んでいるようにすら見える。とてもじゃないが、デパートについて雑談を仕掛けられるような雰囲気ではなかった。
カウンター席に腰掛ける私の背後は、通路を挟んで小上がり席になっていた。そこに横並びになったテーブルを、スーツ姿の集団や、小学生くらいの子どもを連れた家族らしき人々が囲んでいる。その様子からして皆、富山の人たちだろうか。私とは対照的に楽しそうに談笑していた。
ふと一つ高い声が聞こえる。ネクタイをした男性が、通路を歩く割烹着の女性店員を呼び止めたのだ。男性は間もなく、何かは聞き取れなかったが「塩焼き」を注文した。
女性の返答は早い。
「今日はないよ」
その無愛想な口調は、私に向けられたものとさほど違わなかった。私のジョッキを握る手が硬直する。今、男性が頼んだのは何の塩焼きだろう。もし「げんげ」だとしたら、唐揚げも用意がないはずだ。私の念願はかなわない。いやそれよりも心を占めているのはもはや、あの女性に冷たく断られてますます居心地が悪くなってしまわないかという不安だった。
メニュー帳の右上に合わせた焦点を、慎重に這わせてゆく。しばらくして「げんげの塩焼き」なるものは書かれていないことを確認した。
ちょうどその時、通路の奥からパタパタと女性店員の足音が近づいてきた。どこかの席から注文を受けてきたところだろうか。配膳に追われてはいないか。表情は険しくないか。一瞬にしてさまざまな考えが頭をよぎる。だがそれに注意を奪われては、ビールだけで店を出ることになってしまう気がした。
「あっ、すみません」
私がいくら勇気を振り絞ったところで、相手の対応が変わるわけではない。女性は返事もなく立ち止まった。
メニュー帳を持ち上げて「げんげの唐揚げ」と書かれた部分を指さしながら注文する。やはり返事は早い。はずなのだが、私には針を飲み下すような一時だった。
「唐揚げね」
女性は合図を送るように、調理場へ目をやった。
——通った。
安堵したのか浮かれたのか説明のしづらい感情だが、とにかく私はここぞとばかりに「刺身の盛り合わせ」も追加で頼んだ。せっかく北陸の地へやって来て、これを賞味せず帰るわけにはいかない。

かくして私の求めた品は、板前たちの仕事になった。やがて刺身の盛り合わせが運ばれてくる。きれいに角の立った切り付けは、私に臆することなく日本酒を注文させた。いざ一切れを箸でつまみ、口に運ぶ。舌に乗ったそれは憎いことに、たちまち私のまぶたを下げ、器に残された仲間たちの美貌を隠した。
ついに「げんげの唐揚げ」が到着する。白っぽい見た目は、醤油などで下味を付ける必要がないからだろう。レモンが添えられているが、まずは端に塩を少しまぶすだけでかじってみた。
瞬く間に溶けた。それはまるで舌をよけるかのように、喉の奥へと滑ってゆく。しばらくうっとりとした後、手を伸ばした徳利が空であることに気が付いた。
「それ、食べないの?」
酒のお代わりを頼もうとした時、女性店員の声がした。ぶっきらぼうな響きに、緊張が呼び戻される。だが、どうやら私に対して発せられたものではないらしい。
女性は家族連れの座る席で足を止め、テーブルの方へやや上体を傾けていた。
「この子、食べ始めるまで時間がかかるんです」
どうやら子どものために注文したおにぎりが、しばらく手付かずらしい。答えたのは母親だろう。さほど申し訳なさそうな様子はない。
「ああ、そう」割烹着の女性店員は短く返した。
私は頭を少し下げ、怒号を避ける準備をする。
「いっぱい食べて大きくなりなよ」
そっけない口ぶりのままそう言うと、女性はその席から空になった器を下げ、調理場の方へ戻ってきた。
私は彼女に日本酒を注文する。
今のやりとりこそ、この街の脈拍を聞いた瞬間だった。
(続く)
