英雄たちの経営力 第11回 大久保利通 その5

(承前)

 これに大久保は愕然とした。留守政府は自分がいない間に新しい政策を出しまくり、参議も増員されていたからだ。つまり「十二カ条の約定書」など無視されたことになる。

 大久保は休暇を取って頭を冷やそうとするが、このままでは留守政府の面々のやりたい放題だ。
とくに西郷は、自ら朝鮮使節となって朝鮮国との間に外交関係を築こうとしていた。 


 一方、板垣退助らは、西郷が朝鮮に渡れば暗殺されると確信し、それを理由に出兵しようと画策している。しかし戦争になったら政府の財源は枯渇する。大久保としては、何としても西郷の使節派遣を取りやめさせねばならなかった。


 大久保は岩倉らと組んで西郷を陥れ、西郷や江藤ら五人の参議に辞表を提出させた。かくして「明治六年の政変」と後に呼ばれることになる政争は大久保の勝利に終わった。だがこの時、西郷との間に入った亀裂は、修復できないほどになってしまった。


 十月、官を辞し故郷に帰ることにした西郷が大久保に会いに来た。これが二人の最後の面談となるが、この場には伊藤博文も同席していた。伊藤によると、後事を託しに来た西郷に対し、大久保は冷たく突き放し、すこぶる険悪な雰囲気に終始したという。


 この時の大久保は、これが最後の面談になるは思っておらず、ただ西郷の約束の無視や勝手に官を辞すという無責任に憤っていたのだろう。かくして両雄は決別する。


 またこの頃から自由民権運動が盛んになり、議会制民主主義の導入を求める声が高まってきていた。だが大久保は民権よりも国権の強化こそ急務だと信じていた。というのも欧米諸国は当初、国家が強大な権力を持ち、富国強兵策と産業革命を推し進めたという経緯があったからだ。

大久保の有司専制とその死

 明治六年十一月、大久保は新設された内務省の卿( 現在の大臣) となった。ここに有司専制体制、 すなわち「大久保時代」と呼ばれる四年半( 明治六年十一月から明治十一年五月まで) が幕を開けることになる。


 明治七年( 一八七四) になると、板垣たちの自由民権運動と並行するように士族反乱が頻発する。

 同年一月に佐賀に帰郷した江藤は、征韓党の党首に担ぎ上げられ、政府に対して反乱を起こした。これを聞いた大久保は即座に佐賀に行き、怒濤の勢いで反乱を鎮圧する。

 反乱の首魁たちへの生殺与奪件を与えられた大久保は、形式ばかりの裁判をした後、国家反逆罪として江藤らを斬罪に処した。裁判の際、江藤は発言の機会を与えられないことに憤り、法廷を罵ったが、これを見た大久保は「江藤醜態笑止」と日記に書き留めた。これを見る限り、大久保の江藤に対する憎悪は凄まじいものがあったのだろう。


 続いて問題となったのは台湾だった。


 五月、台湾征討は弓矢しか武器を持たない先住民が相手なので難なく成功したが、コレラやマラリアなどの熱病にやられ、六百五十人余が命を落とした。しかも出兵経費は莫大な額に上った。それでも大久保は、佐賀の乱の即時鎮圧と台湾征討の成功を合わせた実績で周囲を黙らせ、有司専制を推し進めようとした。


 佐賀の乱、台湾征討、そして樺太・千島交換条約と、大久保を実質的首班とする政府は世間の反対意見を黙殺し、強引に政策を推し進めた。その強硬な姿勢に世情は反発し、それを新聞各紙が煽ることで、いよいよ各地で不平士族の動きが本格化してきた。

 残念なことだが、佐賀の乱以降の大久保は独裁的傾向が強まっていく。西郷を決起させたのも大久保の挑発による可能性が高く、薩摩士族だけでなく官軍側にも多くの死傷者を出したことが、その後の日本に大きな痛手となったのは事実だ。
すなわち有司専制体制が確立されていくに従い、大久保の冷酷非情な部分が際立っていったとしか思えないのだ。その結果、西南戦争の翌年にあたる明治十一年( 一八七八)、大久保は石川県の不平士族たちに暗殺されることになる。

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伊東 潤