デパート破産 第25回 (最終回)~山形県からとうとうデパートの灯が消えた~
「大沼デパートは、果たして本当に愛されていたのだろうか」
この連載の初回で、私はこの問いを原稿に置いた。2020年1月の破綻後、山形を包んだノスタルジーに偽りのにおいを感じたからだ。もちろんそれは、大沼の歴史をたどる本を書いた私自身も含んでいた。
私は現在43歳で、これまでのほとんどを大沼本店のある山形市で暮らしてきた。幼いころに母に連れられてデパートへ出掛けた記憶はあるが、胸躍るのはどちらかというとダイエーのような「擬似デパート」と呼ばれた後発店舗や、若者向けのファッションビルだった。
高校に入学し、こっそりアルバイトを始めると。使えるお金が増える。給料の行き先は隣県の都市「仙台」だった。電車や高速バスで行き来ができ、時間も交通費もさほどかからない。身近な都会は休日のお出掛けにうってつけだ。ただしその選択は独自のものではなかった。
—この前、仙台に行ってきてさ。 教室で交わされる雑談を繰り返し耳にした結果だ。「ショッピングは仙台へ」。我々世代の内部には、そのようなプログラムが組み込まれていた。
二十歳が近づいたころ、仙台の街並みよりも刺激的なものが私の目の前にやって来る。インターネットだ。自宅に居ながらにして、全国の見知らぬ人たちと即時的にやりとりができる。個人の作ったホームページをのぞけば初めて触れる世界が存在し、その軒並みは無限に続いているように感じられた。いや実際に無限だった。
恐る恐るではあるが、ネット通販にも手を出してみた。何せ近くの店では取り扱いのない商品がたくさんあるし、店の棚で見たことのある商品については価格がずっと安いのだ。運が良かったのか、ネット通販の入り口で嫌な思いをすることはなかった。となれば、ますます熱中する。こうして私は、体だけを山形に置いてあちこちを放浪した。
山形県民にとって、大沼デパートの死にざまはあまりにも衝撃的だった。創業320年をうたう老舗が、従業員にも顧客にも予告せず閉店したのだから当然だろう。
全国初の「百貨店ゼロ県」となったこともあり、事件は外側からの視線も集めた。
芸能人の訃報が出ると、ネットニュースのコメント欄やSNSなどにはその死を受けての言葉が並ぶ。活躍中の人が死んだ場合なら驚き一色だろう。だがこれが最近目立った活動のなかった人だった場合は、若かりしころの代表作についての懐古が多くを占める。
大沼の最期は、人々の口から驚きの言葉を引き出した。ただしそれは、終焉が予想だにしないものだったからだろう。間もなく語られるのは「小さいころお母さんと一緒に」や「昔は屋上に遊園地があって」といった遠い過去だ。山形はデパートの喪主となったが、私を含めて触れ合いの記憶が乏しかったり古かったりする者が多い。だが動揺とノスタルジーとによって、生前の関わりの希薄さはごまかされてしまった。
大沼の追悼だけならばそれでいいのだろう。各人が後ろめたさを隠しながら、悲しみにまみれたらいい。だが話を「デパートの今後」にまで拡大した場合、山形の「葬儀」を見たまま受け取ってしまっては間違いが起こる。デパートの苦境という問題を解決するためには、何より正しい現状の把握が必要だと考えるからだ。
そういった理由から1年間、現地で生まれ育った私の経験を中心に、ノスタルジーを退けた「山形の現実」を報告してきた。業界紙に載せる文章としては礼を欠くものかと恐縮しつつではあったが、お許しいただいたことに感謝の念が絶えない。
最後だけノスタルジーをこの胸に戻そう。私は大沼がなくなる前に何もできなかったことを今さらながら悔やんでいるし、これ以上デパートになくなってほしくない。
この文章が、わずかでも役に立ちますように。