英雄たちの経営力 第11回 大久保利通 その1

日本国の根幹を作った男

 大久保利通を一言で言い表すのは難しい。「明治政府の牽引者」と言えば分かりやすいが、それは「明治六年の政変」以降、十一年に死を迎える頃までのイメージが固定化されたにすぎない。

 幕末の薩摩藩では島津久光と小松帯刀、あるいは西郷隆盛が主導しており、表舞台に踊り出るのは大政奉還の頃からになる。

 だがこの男を過小評価はできない。果断にして非情。決断すると梃子でも動かない頑固さ。正義や大義にとことんこだわる硬骨漢。常に国家を第一義に置き、主君だろうと竹馬の友だろうと切る時は切る冷酷さ。こうした要素が、表裏一体化して混在しているところが大久保の強みなのだ。とくに相棒の西郷隆盛が情誼(じょうぎ)の人なだけに、そのコントラストは際立ってくる。

 しかし注意せねばならないのは、西郷を対置ないしは西郷を常に意識しつつ大久保の本質を探ろうとすると、真実の大久保は遠ざかるだけだ。友としても敵としても、大久保と西郷は切っても切れない間柄なのは確かだが、本稿では大久保一個に焦点を当て、その経営力を探っていきたいと思う。

青年時代の大久保

 大久保利通は文政十三年( 一八三〇) 八月、薩摩国に生まれた。西郷は三歳年上だが、幼少の頃から極めて親しい間柄だったのは周知の通りだ。

 幼少時代の大久保は、学問は優秀だが、武芸は得意ではなく、長短併せ持った多くの中の一人として、友人たちと共に学び、将来の夢を語り合っていたようだ。

 大久保は若い頃から日記を書く習慣があり、それがよくも悪くも、その時々の心境を残す役割を果たしていた。とくに若い頃の日記を読むと、後年の「孤独な独裁者」というイメージとはほど遠い、伸び伸びとした青春時代を送っていたようだ。

 大久保も「郷中(ごじゅう)教育」、そして精忠組( 西郷を中心とした急進派若手グループ) の影響下にあり、西郷らと議論を戦わせながら切磋琢磨していった。

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伊東 潤