デパート破産 第22回 ~山形県からとうとうデパートの灯が消えた~
「大沼の包み紙だと機嫌がいいからね」
母の言葉を、なぜかずっと覚えている。祖父のことだ。
盆や年始になると、母の用意した手土産を持参して祖父の家を訪ねた。当時の山形市には大沼のほかにもデパート、及び似た機能を、持つ店がいくつかあったが、大沼の包装紙を差し出さないと祖父は苦い顔をするのだそうだ。
難しい人だった。というのは両親の言うところで、孫の私にとっては昔から「優しいじいちゃん」だった。だけど両親が語る私の知らない祖父の一面を聞くうちに、私の見方も徐々に一致していった。小学生の時には、金のことで祖母を怒鳴りつける場面を目の当たりにしたこともある。2つ下の弟が泣きながら止めていたが、私はどうすべきか分からず肩をすぼめ、ただ正座していた。
やがて高校生になり、修学旅行の日がやって来た。出掛ける前に母が言う。
「おじいちゃんのところにも、お土産ね」
気が重かった。「それを自分で届けに行くように」という意味を含んでいるのも知っていたからだ。
もちろん京都に大沼デパートなどないので、どうすべきか余計に悩んだものだ。甘いものは苦手かもしれない。じゃあせんべいかと考えたが、確か祖父は入れ歯をしている。結局、お茶ということになった。
自転車で30分ほどかけて、独り訪ねていった。祖母はすでに他界していたので、玄関をくぐれば私と祖父の2人だけだ。テレビもついておらず、部屋には柱時計の音だけが響いていた。
祖父は孫の訪問がうれしかったらしい。「京都」のブランドも手伝ったのかもしれないが、包み紙を見ても表情をゆがめることはなかった。むしろにこやかに、座卓に乗ったお菓子を勧めてきた。
私の緊張は解けない。とはいえ土産を置いてすぐ帰るわけにもいかないので、不慣れな雑談を始めてみた。
金閣寺は教科書の写真で見た通りだったとか、銀閣寺は思ったよりも小さかったとか、しゃべり方がたどたどしい上に、間に妙な沈黙が挟まる。10分もしないうちに、私は旅行の思い出話を続けられなくなってしまった。
「じいちゃんは、マージャンやるの?」
気まずさに耐えられず、脈絡のない質問に逃げた。当時の私はマージャンを覚えたばかりで、その楽しさに夢中になり、しばしば友人たちと卓を囲んでいたのだ。
祖父が鼻息と共にニッと唇の端を持ち上げる。「マージャンは、満洲でやり尽くした」
それを皮切りに、戦争の回顧が始まる。私は延々と続く話に適当な相槌を打ちながら、頰の硬直を解いていった。中身を理解するつもりがあったわけではない。ただ、この話が終わったら腰を上げても不自然じゃないだろうなどと計算をしていたのだ。
祖父は15年ほど前に亡くなった。多くの人に疎まれながらも長く生きた。在りし日の姿を浮かべると、いつもあの時の言葉を思い出す。
—満洲でやり尽くした。
戦時中の兵たちは、どんな話をしながら卓を囲んでいたのだろうか。それだけでも本になりそうだが、かつての私は全てを聞き流した。
今になって分かる。あの時、祖父と私は「記憶」という財産の相続に失敗したのだ。紙に記されていない個人の貴重な体験が、あの時に葬られた。いや、互いに墓穴に埋めたのだ。
同様の行為は日本じゅうにあったはずだ。いや、今も行われている。「古い」と切り捨てられる地方デパートもまた、世代間の溝に落下したものの一つだろう。
だが、それを受け取る側の問題にしてはいけない。高校生の私は帰宅を優先したが、祖父だって話に興味を持たせる工夫ができたはずだからだ。