英雄たちの経営力 第10回 荻原重秀 その5

白石との対立

 人には嫉妬という厄介な感情がある。それでも不遇な人生を送っていた人の人生が突然開けてくると、たいていは過去のことを忘れる。だが中には偏執的な人物もいる。

 その典型が新井白石だ。白石は狷介固陋(けんかいころう)を地で行くような性格で、特定の人物を「悪」ないしは「敵」と認識したら、とことんまで追い詰めるという厄介な人物だった。

 宝永六年(一七〇九)、五代将軍綱吉が六十四歳で亡くなった。六代将軍には綱豊が家宣と改名して就いた。しかも老中首座には土屋政直が就いていた。政直はかつて貨幣改鋳に反対していた数直の息子で、白石が幼少期を過ごした久留里藩主の土屋利直の甥にあたる。かくして重秀にとって不運としか言えない面々が、幕府の枢要を占めることになった。

 かくして力を持った白石は、「天災が続くのは貨幣改鋳のせいで、家康時代の貨幣制度に戻せば、金銀生産量も増加する」といった信じ難い理屈で重秀を失脚させようとした。

 宮崎道生氏の『新井白石』によると、「これには、当時の知識人をはじめ一般の人々の間に、悪政には『天譴(天のとがめ)』が降るという、儒教の降災思想が現れている」とのことだが、何をかいわんやだろう。

 白石は二度にわたって重秀の弾劾書を家宣に提出し、重秀を「共に天を戴かざるの仇」とし、「重秀を罷免しないのなら、私が城中で刺し殺す」とまで言い切った。本来なら切腹を申し付けられてもおかしくないほど激越な言葉だが、あまりのしつこさに辟易したのか、家宣はこれを受け容れ、重秀を解任する。

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伊東 潤