デパート破産 第21回 ~山形県からとうとうデパートの灯が消えた~

 職業柄というよりも私の性格のせいなのだろう。同業である飲食店の廃業に敏感だ。

 インターネットを使い、特に山形市内の閉店情報を見つけては、自分がまだそうならずに済んでいることに安堵する。悪趣味だが、開業からおよそ13年間も続けているものだから、すっかり抜け出せない習慣になっている。

 さて、店がSNSで廃業の予定を発表すると、ほとんどの場合それを惜しむコメントが投稿される。当然ながら常連客のものが多いのだが、次いで目立つのがこんな内容のものだ。

「ずっと行きたいと思っていたのに残念です」

 遠くに住んでいる人なのかとプロフィールに目を通してみるが、どうもそうではない。行ける距離に居て、ずっと行きたい気持ちを持っていたのに、一度も行かなかったわけだ。

 最後の日が近づくと、店には行列ができる。これまで足を運び続けた人たちが思い出にと押し寄せているのだろう。店主の高齢を理由としている場合などは、過労で倒れはしないかと心配になるほどだ。

 インターネットで、店を訪れた人の感想を探してみる。長年通い続けたお客の、追悼にも似た文章があちこちにあるわけだが、こういったものも散見される。

「気になっていたお店が今週で辞めてしまうとのことで、初めて行ってきました」

 私の脳裏に、ある光景が浮かぶ。2018年に閉じた「十字屋山形店」の最期だ。

 何ら予告なく廃業した大沼デパートと違い、十字屋は半年近く前に閉店を知らせている。山形駅前で長く営業していた分だけ悲しみの声も多かったわけだが、業績が良ければ違う現実があったはずだ。

 大沼にも共通する話だが、十字屋から足が遠のいた理由として、前々から駐車の不便さが挙げられていた。それを解決するように登場した、広い無料駐車場を持つ郊外のショッピング・モールに人が流れるのは当然だろう。私だってそちらに向けて車を走らせたものだ。

 これが閉店告知で一変する。不満の的だったはずの狭くて有料の立体駐車場に、車の行列ができたのだ。例のごとくSNSに投稿があふれる。

「子どもの時以来のレストラン。とても懐かしい気持になりました。なくなってしまうのが残念です」

 夫婦だけで営むそば屋も、高層のデパートも、起こる現象は一緒だ。これを目の当たりにするたびに、私は軽薄な客たちへの皮肉をこぼしてきた。

 だがここで、もう一歩考えを進めたい。

 例えば十字屋で、例えば大沼で、アイドルグループの「嵐」が握手会を開くとなったら、駐車場への不満を言う人など居るだろうか。むしろ駐車料金が倍になっても、延々と行列が続くだろう。

 私たちはいつも何かを選択している。そばよりラーメンを選んだり、デパートよりショッピング・モールを選んだりする。なぜその選択に至ったのか。ある人は距離を、ある人は価格を、中心街の店に対しては多くの人が駐車の不便さを挙げるだろう。

 でも、それをそのまま受け取っては間違いを起こす。彼らの言葉の底には、移動距離に見合う何か、支払う金額に見合う何か、不便さをはねのける何かがない、という意味が沈んでいるからだ。

 仮に、中心街に広い無料駐車場を設けたとしよう。始めのうちは珍しいもの好きの人たちが殺到する。だが街の内容次第では、やがて閑散とするに違いない。結局のところ「山形の街はつまらない」と言われ続けているだけなのだ。

 廃業を選んだ店は、皮肉にもその事実が強力なコンテンツとなって注目され、集客する。それと同等の企画やアイデアがこれまでにもあれば、今も未来を語っていたはずだ。