デパート破産 第20回 ~山形県からとうとうデパートの灯が消えた~

「大沼の存続を心から願っていたのは誰なのでしょう」

 先日、山形市内で拙著『さよならデパート』にまつわる講演の機会を頂戴した。大沼デパートについて書くことになったきっかけや、取材の方法、執筆前から発売後にかけての心境の変化などを話しながら、破綻から4年が経とうとしている現在も廃墟のままでいる店舗を脳裏に浮かべていた。

 冒頭の問いは、質疑応答の時間に読者から投げ掛けられたものだ。創業家の離脱やファンドの迎え入れと追放、県内実業家の手助けなどを経て、大沼は320年の歴史を閉じる。歴史の最終局面で、本当に大沼を救おうとしていたのは誰なのか。いや、そんな人物が存在するのか。それが質問の真意だった。

 崩壊に向かう大沼について書かれた記事に目を通せば、多くの人がファンドを「悪者」と見るだろう。事実、ファンドの社長と大沼の社長とを兼務した人物は、ほとんど店に顔を出さなかったり、大沼再建に使うはずの資金をファンド側に還流させていたりと、印象の良くない話が次々と出てくる。結果として内部分裂の引き金を引くとになった。

 だが少し時間をさかのぼって考えたい。

「大沼には他の選択肢もあったんですよ」

 本を書くための取材中、ある人が明かしてくれた。

 大沼が外部からの資金が必要だと判断したのは2017年だ。当時は創業家にゆかりのある人物が社長を務めていた。

 彼の前にはいくつかの会社が並んだ。どれも助けを求める大沼に対し、資金の提供で応じようという会社だ。

 もちろん無条件ではない。資金を出すからには、それに見合った改革、いわゆる「痛みを伴う」変化を要求したそうだ。

 なぜ大沼は例のファンドに頼ったのか。そこが他社のように「痛み」を求めなかったからだという。もちろん何の条件もないわけではない。創業家はファンド側に経営権を明け渡し退くことになるのだが、それも数ある選択肢の中では楽だったということなのだろう。

 おいしい話に裏があるというのは、ここで説くまでもない。それより重要なのは、選択次第で2020年1月の悲劇を避けられたかもしれないという点だ。

 内紛の末にファンドを追放した大沼が新しい社長に据えたのは、静岡の生まれで元は東京の銀行で働いていた人物だ。冷静な態度とは裏腹に強い責任感を持つ彼だったが、ある出来事によって大きな穴に落ちてしまった。しかも自覚なくだ。

 窮地の大沼に差し伸べられる手があった。山形県内に住むとある実業家のものだ。彼は「思い入れのある大沼デパートをなくしたくない」と巨額の援助を申し出る。社長も純粋な善意として受け取ったわけではないだろう。それでも暗闇に差した光に見えたはずだ。

 元従業員によれば、それを皮切りに実業家の介入が始まったという。終業後に社員たちを呼び出し、自らが考えた改善案を語るためだ。金の件で上下関係は決まったようなものなので、突っぱねるわけにもいかない。こうして現場が混乱していった。

 さらに、その実業家は地元の有力銀行と折り合いが悪かったそうだ。大沼と実業家が結び付きを強くしたことで、銀行側が大沼救済から手を引いてしまう。この展開は、山形の経済界に長く身を置いた者なら誰でも予測できたという。

「私がその事情にもっと通じていれば」

 電話での取材時、元社長は淡々とした口調に悔恨をにじませた。「最後の社長は、できる限りのことをやったと思います。それと、最後まで残った従業員の皆さんは再建を信じていたのでしょう」

 読者への答えを、私はそう結んだ。

 だが事実はどこにあるのだろう。2週間が経った今でも、その疑問が頭の隅でゆらゆらしている。