英雄たちの経営力 第8回 蘇我馬子 その3

馬子の登場と抵抗勢力の排除

 こうした時代背景を経て、馬子は表舞台に登場する。

 国内では、欽明と稲目が死去することで、国家の舵取りは次の大王の敏達、馬子、物部守屋の三人に握られた。ちなみに後に馬子と共に二人三脚で国家を牽引していく推古は、敏達の后になり、政治に関与してくるのは敏達の死後になる。

 新体制発足当初、馬子は守屋との関係を重視し、守屋の娘を妻に迎え、さらに守屋を自分と同格の大臣とすることで、融和策を取ろうとした。だが五八五年、敏達が崩御し、崇仏派の用明大王が即位すると、危機感を抱いた守屋は馬子との対立姿勢を深めていく。しかも中臣勝海、穴穂部王子、宅部王子といった与党が様々な理由で殺されたことで、群臣の多くが崇仏に傾き、最終的に孤立した守屋は本拠の河内国に引き籠もる。むろんその陰では、馬子の巧妙な与党工作があったのは間違いない。

 ここまで周到に地ならしした後、馬子は守屋討伐の兵を挙げる。この時、大王家の人々はこぞって馬子を支持した。その中には用明の一子・厩戸王子( 聖徳太子) もいた。

 国家の軍事力を司っていた物部氏は強敵だったが、馬子は総力戦で守屋を倒し、仏教を国教とすることに成功する。同時に朝廷の実権も掌握し、馬子の独裁制が確立される。

 用明の死後、馬子は欽明と姉の間に生まれた崇峻を大王の座に就けると、法興寺( 後の飛鳥寺)をはじめとした寺院の造営や建立を進め、七世紀前半までに三十以上の寺院を造営ないしは建立した。だが崇峻(すしゅん)は傀儡に収まらず、独自路線を歩み始めたことで、双方の対立は深まり、遂に馬子は崇峻を謀殺する。

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伊東 潤