デパート破産 第10回 ~山形県からとうとうデパートの灯が消えた~
大沼デパート前の大通りを、従業員が清掃する。かつてよく見られた光景は、破綻後の七日町にも残った。
再起の旗を揚げたコンサルティング会社に合流した元幹部によるものだった。学校を出てからずっと大沼で働いていたとか、自らの親や祖父母が大沼に勤めていたという社員は珍しくない。彼らにとっての大沼デパートは、単なる職場の域を超えていたのだろう。いつか来る晴れ姿に備えるように、大沼の足元は整えられた。
ただし、それを周囲の皆が温かく見守っていたという現実は存在しない。事実、私の経営する料理店では、客席から清掃活動に対する冷笑が聞こえてきた。「営業再開なんてできるはずがない」という見積もりがあってのことだろう。その点については私も同様だったが、わずかな希望にすがらざるを得ない心境も推し量れるだけに複雑だった。
2020年9月30日、コンサルティング会社が主導した「感謝閉店セール」は幕を閉じた。閉店時間である18時半には、多くの買い物客が玄関前に集い、彼らに囲まれながら、かつての従業員たちが深々と礼をした。そこには、私の執筆に賛同し、貴重な資料を提供してくれた元幹部の姿もあった。
本来は1月に行われるべきだった別れが、半年以上を経て実現した。セールに協力した元従業員や長年の顧客にとっては、感慨に震える瞬間だったはずだ。だが私はそのシーンに、ある記憶を重ねていた。
2年半ほどさかのぼって2018年1月、山形駅前で46年間看板を輝かせた「十字屋」が閉店した。こちらは大沼と違って、前年の夏に告知されたものだった。だから別れの機会はじゅうぶんに与えられた。終わりの瞬間が近づくにつれ、立体駐車場の入り口には順番待ちの車が列を作るようになった。
寒空の下に人だかりができる。19時半を少し過ぎたころ、十字屋山形店がその命をまっとうした。
玄関から漏れる「蛍の光」が、雪の街路に流れた。集まった人々の前で従業員たちが頭を下げ、古びたシャッターが悲鳴のように鋭い音を響かせながら閉じていった。
正直に告白すれば、私はこの一連を冷ややかに見ていた。十字屋が閉店を発表する以前、多くの市民が駅前という立地、特に入りづらい駐車場やその料金に不満を言っていたはずだからだ。
なくなると分かった途端にこれか。苦情の的だった駐車場には車が群がり、SNSでは思い出が語られる。まるで皆がずっと十字屋を愛し、足を運び続けていたかのように、景色が塗り替えられていった。
大沼の「感謝閉店セール」、その幕引きは私の目に十字屋終焉の再現として映った。七日町に、めったに見ることのない群衆が発生する。彼らの多くはスマートフォンを高く掲げ、明かりのともったデパートに、深く礼をする元従業員に、とレンズを向けていた。
レンズ越しの別れはどんな意味を持っているのだろうか。今日という日を振り返るためか。友人に見せるためか。インターネットで「いいね」をもらうためか。いずれにせよ、本来デパートが売り場で提供してきたはずの「他では得られない体験」が、命を終える瞬間をさらすことでよみがえったのだ。こんな皮肉はあるだろうか。
2ヶ月半のセールの間、営業再開の話は何ら具体性を帯びなかった。新聞では「地権者との交渉が進まず」と報じられた。また、そもそも地元銀行は競売の方針を固めており公共性の高い土地だけにその線は曲げられないという事情もあったらしい。
一方、私は本の制作に向けて、資料収集や取材を重ねていた。大沼の歴史や山形中心街の変遷など、基本的な知識を身に付けたのを時機にして、協力してくれた元幹部にメッセージを送った。彼が見てきた大沼デパートの姿を、本に反映させたかったからだ。むしろそれを抜きにして完成はさせられないという思いだった。
返信には「もう二度と大沼には関わりたくありません」とあった。
再開断念の失意が、彼を街から引き剥がしたのだった。