英雄たちの経営力 第7回 白河上皇 その4

白河院政から鳥羽院政へ(承前)

 白河は四十三年にわたる院政の後、大治(だいじ)四年( 一一二九)、七十七歳で崩御(ほうぎょ)する。それを待っていたかのように鳥羽院政が始まる。

 白河は父の後三条と違って自ら不正の中に飛び込み、利権構造を築いた。それゆえ誰も律令制を守ろうとする者はいなくなり、律令制は形骸化していった。支配者は搾取し、被支配者は搾取されるだけという構図が長く続くわけがない。かくして在地の武士たちは結束し、自分たちの利権を守ろうとなっていく。

保元・平治の乱と後白河院政

 保元・平治の乱の歴史的意義は、皇位の行方や公家の政治生命が天皇の権威でも政治的駆け引きでもなく、武力によって決定されたことにある。

 武士という新たな階級が中心になって王権の行方が決定されたことは、朝廷および公家権力が次第に無力化されていくことを暗示するものだった。

 保元の乱では、時の権力者である鳥羽院の心を摑んでいる信西(しんぜい)ら院近臣と摂政の藤原忠通(ただみち)が手を組み、それに崇徳(すとく)院と藤原忠実・頼長(よりなが)父子が反発するという対立構造だった。皇位をめぐる確執はもちろんだが、摂関家の争いは摂関家領という荘園の相続権が絡んでおり、ここでも寄進地系荘園の弊害が出ている。

 ここで重要なのは、摂関家の主流派だった藤原忠実・頼長父子が敗れることで、忠通が勝者となったものの、凡庸な忠通が摂関家の氏長者となったことで、摂関家の衰退が一段と進んだことだ。すなわち戦後、勝者だった忠通は、摂関家の所有していた多くの権益や荘園を後白河天皇の権力を背景にした信西によって取り上げられた上、敗者同然の扱いを受けることになる。白河・鳥羽両院時代を通して続いてきた院近臣と摂関家の併存的政治体制は、これによって終焉した。

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伊東 潤