デパート破産 第4回 ~山形県からとうとうデパートの灯が消えた~

 私にとって大沼デパートが身近になったのは、海鮮丼で失望を味わってからずっと後のことだった。

 2011年4月、東日本大震災が起こった翌月に、私は山形市内に料理店を開業した。10代で描いた夢に20代で挑み、挫折を繰り返し、何者にもなれない焦燥感から逃げるように、30歳で構えた店だった。

 不安と期待に震える手でのれんを掛けた初日、明かりを落とすまで誰の来客もなかった。厳しい現実にうろたえる。だがたくさんの夢を足元に落としてきた私にとって、ここからの退却は人生の終わりとさほど違わないことも知っていた。

 試行錯誤の毎日を過ごし、ストレスからか夜が近づくと胃酸が上がってくるという病気を患いもした。だが、やがて法人化を達成し、辛うじて5年間店を守ることができた。

 ちょうどそのころだった。大沼の幹部たちが食事をしにやって来たのだ。

 当時は料理店に加えて食品製造も始めており、出来上がった商品を店に陳列してもいた。先に入っていたお客がたまたま帰り際に商品を購入してくれ、その様子が彼らの目に留まったらしい。

「うちで販売させてくれませんか」

 販路の拡大を望んでいたので迷わず返事をしたが、正直なところ目の前が開けたようには思えなかった。

 私の商品は醤油やオリーブオイルに燻製の風味を付けたものだ。20代から40代までの、目新しいものに興味がありそうな層を顧客に想定していた。だから、大沼で売れるとは思えなかったのだ。高齢者のための店、若者には縁遠い店という印象は、ずっと私の頭に埋め込まれたままだった。

 すぐに追加の注文が来た。喜びはあったものの、それを上回ったのが戸惑いだ。

 ――本当にそんなことがあるのだろうか。

 半信半疑で地下の売り場へ納品に赴くと、確かに棚が大きな隙間を空けて待っていた。現場を目にしても私の疑念は晴れない。「誰かがうっかり落としてガラス瓶を割ったのかもしれない」などと想像して折り合いを付けた。

「料理を出してくれませんか」

 間もなく、新しい依頼が舞い込んできた。催事の誘客のために、食の要素が欲しいのだという。配膳や洗い物などは大沼のスタッフが手伝ってくれるというので、これもすぐに承諾した。

 昼の営業で作っているラーメンを、3日間、大沼デパートで提供することになった。奇しくも、17年前にあの海鮮丼を買った会場だった。売上はどうあれ、来てくれた人に同じ思いはさせまい。それだけは自らに課した。

 大沼が作成したチラシを使って告知を広めつつ、当日に向けて仕込みを進めていった。とはいえ通常のランチ営業では、20人の来店すら珍しいくらいだ。立地もさほど変わらないので、1日当たり30人来てくれれば御の字だろうと見積もっていた。

 開店時間の30分前に、20人以上の行列を見た。ここでも喜びに浸る余裕はない。調理が間に合うのかと焦りながら、翌日分にと保管しておいた材料まで使い切った。

 寝不足と疲労に耐えつつ、大沼の前向きな従業員たちの助けを借りて、3日間の営業を終える。明らかにこれまでの実績には不釣り合いな仕事だった。「突然、人気店になった」などと周りに冗談を言ったが、本当のことは分かっていた。

 地下食料品売り場に納めた商品も、催事で出した料理も、老舗デパートの看板に輝きを与えられたのだ。それは店を出してせいぜい5年ほどの私では放つことのできない、300年分の光だった。

 だが同時に、その光が点滅し始めているのも知っていた。