英雄たちの経営力 第7回 白河上皇 その2
後三条上皇は院政をしたのか
こうした荘園の成長過程が、院政にも大きくかかわってくる。なぜかと言えば、公地公民制を事実上破壊されて最も困るのは天皇だからだ。律令制の建て前は公地公民制なので、天皇は私有財産を所有することができない。しかし公家や寺社は勝手に荘園を持ち、天皇家よりも金持ちになろうとしている。「こんな理不尽があってたまるか」と天皇が思ってもおかしくない。
治暦(じりゃく)四年( 一〇六八) に即位した後三条天皇がそうだった。後三条は手続きに不備があったり、所有権があいまいだったりした荘園を摘発し、それを国家のものとした(「延久の荘園整理令」)。これにより公領すなわち国衙(こくが)領が増え、国庫は潤っていく。だが後三条は退位を余儀なくされ、この改革は道半ばで頓挫する。
後三条が退位した理由は様々に論議されている。有力になりつつあるのが、皇位を自らの息子に継承させるために自ら退位したという説だが、自然災害が相次いだこと、また執務に差し支えるほど病気が進行したといった説もある。
院政は、応徳三年( 一〇八六) に白河天皇が堀河天皇に譲位して始めたというのが定説だが、それ以前の延久四年( 一〇七二)、後三条天皇が白河天皇に譲位して院政を始めたという説もある。だが後三条は譲位後、わずか五カ月でこの世を去るので、上皇としての事績がなく、院政という概念を考えついたかどうかは微妙だ。
そもそも院政というのは、天皇という地位のままでは私有地、すなわち荘園が持てないので、上皇になって公地公民制の頸木(くびき)から逃れるために始められたものなので、公地公民制の原則を取り戻そうとした後三条の方針とは矛盾してくる。つまり後三条は、院政によるメリットを考えていなかったと結論付けられるだろう。
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作 伊東 潤
『黒南風の海 – 加藤清正』や、鎌倉時代初期を描いた『夜叉の都』、サスペンス小説『横浜1963』など幅広いジャンルで活躍
北条五代, 覇王の神殿, 琉球警察, 威風堂々 幕末佐賀風雲録 など。