地方デパート 逆襲(カウンターアタック)プロジェクト その6 地域主義と地方デパートの存在

歴史の中での地方の概念

 地方という表現にどこかマイナスイメージをもってしまうことは、多くの日本人に共通する点のようです。例えば、弊社が取材をする際も「地方デパート」という表現に否定的な見解を示すデパート経営者もいます。
しかし、本来地方という言葉には「中央に比べて劣る」という意味はありません。今回は、このことを歴史的に紐解いていきたいと思います。

 地方(ぢかた)という言葉は、地方の原型となる概念です。地方は、地形を意味する言葉であり、土地の形状から始まって各地域の農業や民衆の生活の在り方を指すと、1970年代に地域主義を唱えた玉野井芳郎氏は語っています。それが明治以降、中央集権システムの確立の中で、行政用語として抽象化され、中央への対立概念としての地方( ちほう) という位置付けが定まっていったのです。

 歴史学者の峰岸純夫氏は、中世の地方の発展について次のように言っています。「日本では平安時代以降、在地領主が全国に点在し所領を治めてきた。それが発展し、各地の中小武士が本拠地に城郭を構え、その周辺に所領を拡大していき、やがて本城・支城を築き、防備を固め、城下町を作り、一円所領化していく。その中で、いかに多くの家臣団を内包し軍事力を強大化するかが課題となっていった。戦国時代の始まりである。」

 つまり、戦国時代は日本の歴史の中で地方が最も輝いた時代であり、だからこそ現在の中央集権国家への反発心から多くの人にロマンと憧れを呼ぶのではないでしょうか。

地方の存在感の減退 

 やがて、徳川家康により全国は統一され、江戸を中心に一つの中央集権体制が整いましたが、実際には藩体制によって地方は独自の文化を育む仕組みを作っていきます。しかし、肝心の侍はサラリーマン化し、形式的に所領は持つものの、在地領主として地域とつながりを持ち根を張ることが出来ませんでした。つまり、本当の意味での土地所有者になり得ずに数百年の時を過し、結果的に明治時代には廃藩置県による侍社会の解体を一気に加速させることになります。不平士族という言葉で括られる落ちこぼれ武士たちという有り様を、近代社会への変容の、あたかも象徴として今日まで歴史上の事実としてきたことはまさに地方の格付けを低位にする出来事なのかもしれません。廃藩置県は、地域での一国一城の主という日本的地方分権の在り方を破懐してしまう政策であったのです。地租改正により税金を物納から金納に変えたことも、中央政府が財政主権を一手に集中させる手段に過ぎず、地方をいわゆる田舎的認識に陥しめたといえるでしょう。

過剰な中央集権国家日本  

 以後、富国強兵・殖産興業という国策は、地方をより脆弱にしていく手段として使われていきます。確かにある種の産業は地方に育成されてきましたが、その地方ごとに完結される財政基盤は作らせなかったのです。明治政府の仕組みは、国づくりのために真似たドイツ帝国と同じ中央集権国家であるとの理解がされています。実際には、ドイツには連邦ごとに異なる法律に基づく制度があり、日本のそれとは非なるものです。即ち、日本には世界的にも類を見ない歪な中央集権国家が出来上がってしまったのです。

 小学生の頃、四大工業地帯や四大工業地域など工業が進んでいる地域の名称を暗記させられ、その内の京浜工業地帯が自らの居住するところであることにいささか誇らしさを感じたものでした。このように、学校教育にまで国の施策の中央集権的文化を戦後も伝え続け、それに洩れた地方を格下に見せるような発信をしてきたのです。

地方を見直す時が来た

 今でも、テレビ番組のクイズでは「メロンの生産量が最も多いのはどの県か」といった出題が溢れています。これこそ、資本主義の視点で市場経済を画一的に捉えている証です。農業技術が発達し、日本中どの地域でも数多くの農作物が成育される時代であるにも関わらず、何故食物ごとの上位の生産地は変わらないのでしょうか。中央卸売市場を頂点に流通を組織化し、特定品目の耕作地を絞り込んだ合理的経済の賜物だからです。地域内の人々を優先した多様な野菜消費を統合する地域市場があれば、地域の農業はもっと豊かなコミュニケーションを持てたはずです。

 地元の生産物が地元の人の口に入らないなどという馬鹿げたことが当然になっている現在の資本主義を見直すべき時がきているのです。もう地方を中央の下請けとするような思想は切り捨て、地方こそ文化を育てている人々を豊かにする場所であることを明らかにしていこうではありませんか。そこでの主役こそ、デパートなのです。