デパート破産 第1回 ~山形県からとうとうデパートの灯が消えた~

 突然、店の戸がノックされた。予約は17時なので、2時間も早い。届け物かと開けてみると、外には知った顔があった。

「今日、大沼がつぶれます」

 2020年1月26日、穏やかな天気の日曜だった。

 立っていたのは大沼デパートの、ある部の課長だ。彼が周囲を気にしていたので、まだ準備の整っていない店内に招き入れた。

 私も混乱していた。つぶれるとは、閉店ということなのだろうか。どう質問したかは覚えていないが、彼は否定しなかった。

 彼によると、他の従業員には終業後に告げられるそうだ。幹部や役職付きの社員は早めに知らされたらしい。とはいえそれもついさっきのことで、動転したまま私の店へやって来たという。

「明日から、中に入れなくなっちゃうので」

 彼は近くに止めてある社用車にいったん戻ると、荷室からコンテナを運んできた。中身は大沼に保管してあった私の調理器具や食器類だ。なくなっては困るだろうと気を回してくれたらしい。

 私が山形市の小姓町に料理店を開いたのは2011年4月、まだ震災後の沈痛な雰囲気が漂っているころだった。
かつて遊郭やキャバレーで⼈を集めた街だが、時を経て店は激減した。家賃の安さにつられて看板を掲げたものの、のれんをくぐったのは「初日にお客がゼロ」の悲惨な現実だけだった。

 苦い経験をしながら3年耐えて法人化、5年踏ん張り食品製造部門を設立し、そこで作った調味料に大沼が目を留めてくれた。

 地下食料品売り場への納品から始まり、やがて催事場での料理提供も依頼されるようになる。その際の企画・交渉役として動いてくれていたのが、コンテナを前に肩を落とす彼だった。

「会見は明日なので、まだ誰にも⾔わないでください」

 私は約束を守ったが、夜には地元のテレビ局が閉店を報じた。
̶今日で終わりだった。

 この事実は山形市の中心街を震源にして、県庁を戦慄させた。従業員は即日解雇。買掛金の支払いは不能。テナントの売り上げも消えた。それが320年続いた老舗の最期だったのだ。

 2年前に役目を終えた「十字屋山形店」が、閉店セールをやり遂げ、降りるシャッターの下で従業員たちが深く礼をし、集まったお客から拍手を浴びるという美しい引き際を見せただけに、この唐突な消失への驚きはすさまじかった。

 山形は全国で初めてデパートを持たない県になった。報道機関が、失職した者たちの哀切や、常連客の嘆きを取り上げる。一方では、華やかな過去を懐かしむ動きもあった。私の料理店ではお客たちが、幼いころの楽しみだった屋上遊園地や、地下で食べたたこ焼きの話で盛り上がる。大沼を失った者たちは、それぞれのやり方で新しい道をたどり始めた。

 2年が過ぎ、私は大沼の誕生から終焉までを追ったノンフィクション『さよならデパート』を発刊する。
それは長い葬式を切り上げる合図だったのかもしれない。読者の一人一人が思い出に浸り、あらためて寂しさを感じたりもしながら、本を閉じて日常に帰った。

 しかし。この紙面でデパートの行き先を語るならば、見落としてはいけないことがある。過去じゃなく未来の話をするならば、ノスタルジーや感傷の奥から取り出さなければならない疑問がある。

「大沼デパートは、果たして本当に愛されていたのだろうか」

 ありがたいことに1年間連載する機会を頂いた。私はこの主題を掲げ、山形における地域とデパートとの関係について再検証をしていきたい。