英雄たちの経営力 第6回 平清盛 その3

日宋貿易における輸入品と輸出品(承前)

 こうした渡来銭への依存は室町時代中盤まで足枷(あしかせ)となり、その輸入量が減少することで慢性的なデフレを生み、それが応仁・文明の乱の遠因となったとさえ言われる。

 当初、輸入した銭は貿易の決済手段として使われていたが、清盛は国内交易の決済手段としても使わせようとする。そのためには、政府が銭を大量に使うのが手っ取り早い。それゆえ人夫や官人の給与に銭を使ってみたが、物々交換はなかなか駆逐できない。これには、渡来銭の絶対量不足という原因があった。

 それでも畿内の一部の地域で銭が普及し始めるや、すぐに効果が出始めた。民は欲望を喚起され、これまで以上に仕事に励むようになる。南宋と同じことが日本でも起こったのだ。

 これに味をしめた清盛の貿易振興策によって流通する銭が徐々に増加し、副次効果として労働生産性も向上していく。

 これを見た清盛は、次の段階として銭の使用を法によって促進しようとした。従来の法に銭を組み込もうとしたのだ。

 古来、日本には「沽価法(こかほう)」という市場における公定価格( 物品の換算率) を定めた法があった。例えば「米一斗五升は油一升」といった具合だ。清盛はこの「沽価法」に銭も加えようとした。

 ところが九条兼実(かねざね)ら公家や権門(けんもん)寺院は、銭の普及によって彼らの収入元になる米や絹の価値が下がったと思い込み、銭の普及を阻止しようとした。これにより「沽価法」への銭の導入は見送られるが、清盛は無理しなかった。おそらく宋人から「無理しなくても、銭の利便性に気づけば自然に普及する」と教えられたに違いない。

 かくして銭の「沽価法」への導入は見送られたが、反対勢力を陰で操っていたのが後白河院なのは明らかで、清盛はその怒りから「治承(じしょう)三年の政変」に至ったという説もある。

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伊東 潤