渡辺大輔のデパート放浪記 - ペンを捨てよ、街へ出よう - (第34回 長野編その5 )

 

 長野の地酒と土産用のそばを紙袋に入れてもらった。店の主人はだいぶ目が弱っているのか、瞳がすっかり隠れるくらいにまぶたをすぼめながら釣り銭を数える。私は財布を胸の辺りに抱えて待ちながら、それとなく先ほどの話の続きを促した。

「松本はね、長野県じゃなくて『信州県』なの」

 主人の表情に侮蔑や怒りの色は見えない。あるのはやや冗談めかした、優越感の笑みだった。

「日銀の支店があるのは長野市じゃなく松本だし、国立大学の本部もこっちでしょう。空港があるのだって松本だからね」

 主人が言うには、親の代はもっと「バチバチ」に対抗意識を燃やしていたそうだ。

「実際に、県庁が何度か火事でなくなっているから」

 急に物騒な話になった。

「なぜか、だけどね」

 まだ現在の長野県が北と南の二つに分かれていた明治の初めから、統一を経て明治の終わりごろにかけて、たびたび県庁の焼失事件が起こっているという。中には所在地の移転をもくろんだ放火と言われたものもあるらしい。それはうわさにしても、県庁が炎に沈むたびに移庁が叫ばれたのは確かなようだ。

「もう一度、県を二つに分けるって話も昔はあったんだ」

 その議論がどこまで具体的に進んだのかはわからない。だが主人の記憶に残り続けるほど、長野市との対立は根深いということだろうか。

 そういえば長野県には、男子プロサッカークラブとして「AC長野パルセイロ」と「松本山雅FC」の二つが存在する。日本で4番目に広い面積ゆえなのかもしれないが、主人の話を聞いてしまうと、互いのにらみ合いにもう一つの理由を探してしまう。

 地元由来の井上百貨店や長野市にはないパルコを擁していたのは、松本市民の自尊心を支えていたのだろう。実際にそこで買い物をするかは別としても、と皮肉を付け加えたくなるが、商業施設のこういった効能は覚えておくべきなのかもしれない。

「井上百貨店は、山形村の『アイシティ21』に統合されたんですよね」

 明日は朝からそこへ向かうつもりだ。交通手段について助言をもらう目的もあって、私は主人に尋ねた。

 主人は怪訝そうな表情をする。長野市を罵っていた時は楽しそうだったのに、愉快な感情の一切を横にどかされたように、疑問だけを顔に表した。

「百貨店が、そっちにねえ」

 そのニュースは知らないそうだ。 主人いわく、自家用車がないのなら、山形村へはバスで行くのがいいらしい。駅のすぐそばに泊まるのだと告げると、そこから近いバスターミナルを教えてくれた。


 他のお客が入ってきたので、礼を言って店を出た。居酒屋での食事を早く切り上げたのと、主人から刺激的な話を聞いたのとで、すっかり酔いが去っている。コンビニに寄って酒とつまみを買い、ホテルの部屋へ戻った。 

チェックイン時の憎い心遣いに倣って、グラスは冷蔵庫で冷やしてある。シャワーで汗を流して一杯のつもりだったが、貧乏性が顔を出して、どうせならと浴槽に浸かることにした。

 蛇口から吐き出される湯が、浴槽をたたいている。部屋に響くその音を聞きながら、ふとカーテンをずらして窓の外をのぞいた。

 部屋は9階だ。視界のやや下で強い光を放っているのはサイゼリヤの看板か。通りを挟んで向かいの商業ビルに入居しているらしい。テーブルで食事をする若い女性たちが、のけぞって笑う姿が小さく見えた。

 ぐっと視線を落とす。
1階はバスターミナルらしい。

 そうか。明日はそこから『アイシティ21』へ向かうのだ。 

(続く)