渡辺大輔のデパート放浪記 - ペンを捨てよ、街へ出よう - (第29回 富山編その11 )


 大和富山店は、昭和7年から富山の街にそびえていた。

 場所は現在店を構える総曲輪(そうがわ)よりやや東の西町交差点だ。なので当然、空から襲い掛かってくる焼夷弾を見たわけだが、幸い大和は戦禍を免れたという。瓦礫と化した街にとって、百貨店は在りし日の思い出であり、復興の目標だったことだろう。

 県立図書館で読んだ『富山市史』によると、戦後・昭和26年の時点で富山市の商店数は 3971 まで回復しているらしい。そのうち卸売が507、小売が3464と、小売りがほぼ9割を占める。また小売りのほとんどが個人経営で、うち半分が生活必需品としての衣食をまかなう店だったという。

 かつて地理的に閉ざされていた時代の名残なのか、全国平均と比較すると、当時の富山は規模の小さな商店が多く、したがって商圏が狭かったそうだ。

 よそから客足を集める大型店といえば大和のみで、街のほとんどが近隣住民を相手に、高めの小売価格で商売をしていたという。

 だが、昭和28年の「中央通り商栄会」設立、翌年の「産業大博覧会」開催、さらに富山駅の大改築などが遠方から人を招き寄せ、結果として商店街の様相を変えていった。

 昭和30年代になると、政府の所得倍増政策の効果もあって、人々の購買力が向上した。それに合わせて、富山駅にはステーションデパート、中央通りにはスーパーの「タイヨー」や「長崎屋」など大和以外の大型店が誕生する。

 一方で、総曲輪(そうがわ)商店街は、昭和47年、ある天ぷら店が原因でひどい火災に見舞われた。大きな焼失地ができるが、ここに西武百貨店が進出、結果として街は輝きをさらに磨くことになる。その総曲輪へ大和富山店が移ってくるのは、平成19年だ。しかしその前年に、西武百貨店は閉店しており、世の中はモータリゼーションの成熟による郊外ショッピングモール時代の真っ只中だった。

 ホテルのチェックアウトを済ませる。フロント脇の日本酒サーバーと離れるのが寂しかった。昨日の「糸庄」のせいかうどんを欲していた私は、市役所近くに評判のいい店があると知ってそちらへ足を向けた。

 開店から30分ほどしか経っていなかったが、席は7割ほど埋まっている。やはり店員の大げさな歓迎はない。その率直さが心地よく感じられた。

 こちらは煮込みでなくざるうどんが人気らしい。天ぷらとセットで注文する。その間にも、続々お客が入ってきた。彼らの多くは席に着いたまま店員を呼ぶこともせずにただ待っている。入店と同時に注文を済ませているのだろう。

 程なく運ばれてきたざるうどんはしっかり冷水で締められ、平打ちでありながら歯を押し返すような弾力を備えていた。

 駅へ向かう前にもう一度デパートを見ておきたかった。そういえば土産らしい土産を買っていない。地下の食料品売り場で地酒を探す。さすがに「勝駒」はなかったが、げんげを食べた居酒屋で飲んだものと同じ銘柄を見つけることができた。

 若者で賑わうフルーツパーラーを眺めつつ、エスカレーターに足を乗せた。服飾品のフロアに人の姿はまばらだ。だが、先日も見たようにお客と店員とで話し込んでいる光景があちこちにある。一方で、催事場は相変わらず別の店かと思うほど混雑していた。

大和富山店

 今日の「全国うまいものフェスタ」はソフトクリームが人気らしい。会場入り口付近に設置された椅子にも、会場反対側のレストラン街にも、茶色がかったソフトクリームに口を付ける人々の姿が並んでいた。

 長野から来た「桜井甘精堂」のモンブラン・ソフトクリームらしい。確かおやきも長野だったと思い出しながら、会場を歩いた。

 見知らぬ者への身構えや、心を許した者への飾らない気配り、それらは閉ざされていた時代からの遺伝だろうか。それでいて離れた土地への憧れものぞかせる。実に人間らしい街だ。

(次回から長野編)