渡辺大輔のデパート放浪記 - ペンを捨てよ、街へ出よう - (第28回 富山編その10 )

夜は桜木町へ足を運んでみた。富山県最大の歓楽街と呼ばれる場所だ。
雑居ビルに取り付けられたクラブやスナックの看板が、それぞれの明かりで誘惑の色彩を作っている。それらを眺めながら歩いていると、野太い声が私に投げ掛けられた。
「店はお決まりですか」
髪を後ろになで付けた、体格のいい男だった。いわゆる「キャッチ」だろう。
いつもなら無言で通り過ぎる。だが今回の取材では挫折が多かったので、商売といえど向こうから近寄ってきてくれるのは何かうれしかった。
「今日は、これからですか?」
私は自分の来た道を振り返りつつ言った。できるだけ気を付けたつもりだが、やや嫌みに響いたかもしれない。ただ、そう尋ねずにはいられないほど、街を歩く影がまばらだったのだ。
男は看板の明かりを借りて、苦笑いを鈍く光らせた。私にその気がないとわかったのだろう。体の角度を変えて、次の誰かを待つ姿勢を取った。
数歩進むと、通りは細い道と十字に交差していた。角の一つに腰を下ろせる所がある。私はそこで、しばらく風に当たることにした。
時間はもうすぐ9時といったところだ。相変わらず人通りは寂しく、視線を移動して見つかるのはキャッチたちの影ばかりだった。
ふと岐阜の西柳ケ瀬を思い出す。あそこは行政に駆逐されたと言ってもいい、シャッターだらけの歓楽街だった。
「お目当てのホステスにプレゼントするために、デパートへ買い物に行くこともあったやろ」
ぽつんとのれんを掲げていた、うどん屋の店主の声が頭をよぎる。
この桜木町は、シャッターこそ西柳ケ瀬と比べれば目立たない。だが「県内最大の歓楽街」の肩書を背負うには、どうも痩せ細っているように感じられた。
私はその景色をスクリーンにして、ある物語を上映する。それは図書館の郷土資料たちが織り成した、この街の歴史だった。
1945年8月2日、午前0時36分。真夜中の静寂を破って、富山の空から火が降ってきた。
米軍のB29大型爆撃機174機が投下した焼夷弾は、50万発以上だったという。被災者は約11万人、死者は2700人を超えたそうだ。
わずか1時間足らずで、富山市街地のほとんどが焼き尽くされた。この桜木町や、現在、大和富山店の立つ総曲輪通りも、たちまち瓦礫と化したという。

そもそも富山市は、地理的要因からよそとの往来に便が悪く、商業が発展しづらかったそうだ。江戸期は農業、特に米作の内部需要に支えられるが、そういった環境にあって他地域との経済的なやり取りを生んでいたのが「薬売り」だった。
農業の規模には及ばないものの、薬の製造と販売が富山の商工業を先導する。やがて明治期に入ると、道路や鉄道が発展し、さらに海運の発達もあって、これまで閉鎖されていた土地は物資の集まる中心点となった。
商工業を先導してきた売薬は和漢薬だったため、西洋医学の流入によって失速の憂き目を見る。だがもはや運輸の拠点となった富山は、工業に新しいリーダーたちを据え、みるみる成長した。

大正10年には、ついに工業が農業の生産額を上回ったという。だが皮肉にも、それが米軍の的として数えられる理由ともなった。
実際に大量の焼夷弾が落ちてきたのは、工業地帯でなく中心市街地だった。これは米軍側が「日本の軍需産業は家内工業によってまかなわれている」と判断したからともいわれているそうだ。
ともかく、街は灰となる。
そこに明かりを掲げたのが、デパートだった。
(続く)

