渡辺大輔のデパート放浪記 - ペンを捨てよ、街へ出よう - (第21回 富山編その3)

富山を訪ねたのはこれが初めてだが、実は長らく思いを馳せていた地だった。
私はおよそ20年前の秋、20代半ばで父を亡くしている。父は55歳だった。突然のことだったので心の準備も何もなく、家族はしばらく深い失意に暮れていた。
私たちを励まそうと、父や母の友人が食べ物と酒を持参してやって来る日が続いた。にぎやかな夜は確かに、家族の傷を癒す薬だった。
そんなある日の夕食、皆で囲む鍋の中に私は不思議な具材を見つける。タラに似た色合いから魚であることは分かった。ただしその身はやや透明がかっている。お玉ですくうとつるんと逃げそうで、器に移すのに注意が要った。箸で突いてみるとぷるぷるだ。間もなく口の中で、ゼリーのような身が上品な甘みを残してほどけていった。
「『げんげ」っていう魚だよ」
父の友人が教えてくれた。
私が呆然とした表情をしていたからだろう。父の喪失を束の間忘れたあの時、私は日常に戻るきっかけを得たのかもしれない。
その味わいにすっかり心を奪われた私は、後日「げんげ」について調べてみることにした。水深200メートルより深い所に棲む深海魚らしい。やはりぷるぷるとしたゼラチン質の身が特徴として挙げられている。昔はあまり食べる人が居なかったそうで「下の下」が名の由来という説もあるらしい。だが、身のおいしさやフグにも負けない上質なだしが取れることから、徐々に人気が出て、やがて「幻魚」という漢字が当てられるようになってきたという。特産地は「富山県」だ。

大和富山店を出た私は、再び環状線の路面電車に乗り込んだ。来る時も感じたのだが、バスよりも気楽な印象はどこからだろう。車の混み具合に運行が左右されないのは利点だとして、それ以外にも安心を誘う何かがある気がする。
——路面電車があったころは街に出るのも便利だったのにね。
岐阜市の柳ケ瀬でしばしば耳にした言葉にも、ようやく納得できる。確かにこの乗り物は、移動にまつわる億劫さを取り払ってくれる存在だ。
予約してあったホテルの近くで降りて、チェックインを済ませる。フロントの隅に地酒や地ワインのサーバーがあると説明を受けた。何と自由に飲んでいいらしい。つい手が引き寄せられそうになるが、今は我慢しよう。大きい荷物を部屋に置いたらすぐ、目当ての店に出掛けなければならない。
その店では「げんげの唐揚げ」も食べられるという。あれ以来、山形でも魚売り場でたまにげんげを見掛けると買って晩酌の楽しみにしてきたが、煮てポン酢でという食べ方ばかりで唐揚げは試したことがない。私はやがて本場で叶えられる、思い出の魚との対面に胸を躍らせていた。
到着した店は、いかにも手間を掛けた一皿を出してくれそうな佇まいの和食屋だった。表にはのぼりも品書き看板もない。きっと地元の常連客が通う店なのだろう。
これはデパートについてのいい調査もできそうだ。そう期待しながら玄関の戸を開けた。
途端に高低さまざまな話し声が聞こえてきて、客席が壁に遮られていても繁盛の具合がわかる。木製のカウンターの向こうには白い帽子をかぶった板前が4人ほど、それぞれ黙々と手を動かしていた。
数歩奥に入って、ついたてのようにしつらえられた壁の横から小上がり席をのぞくと、やはりほとんど埋まっている。60代くらいの割烹着姿の女性が、客から呼び止められて注文を受け始めた。
女性はかしこまる様子を見せない。やはり常連たちの集まる店なのだろう。女性が注文を伝票に書き終え、視線を上げたところで私と目が合った。
「一人、なんですが」
私は左手の人さし指を立ててみせる。女性は眉間のしわを深くしながら、私の顔からつま先まで視線を往復させた。
「ああ、はい」
そっけない声色だ。ただ顔の動きで、カウンターに座るのを許されたと理解した。
礼を言って椅子に座る。板前たちは先ほどと変わらず手元の食材に目を落としたままだ。
生ビールを頼む前にわかった。
私は歓迎されていない。
(続く)
