横浜老舗フランス料理&洋菓子の「かをり」 -その歴史物語- (第1回)

洋食・洋菓子発祥の地に立地

かをり商事(株)代表取締役社長 板倉敬子氏

 さまざまな西洋文化の発祥の地、横浜。安政6年(1859年)開港直後の万延元年(1860年)にオランダのフフナーゲル氏が日本初の近代ホテル「ヨコハマ・ホテル」を創設。我が国初の西洋食を紹介した。ホテル内部には食堂、ビリヤード室、酒場などが、数年後にはフランス人シェフによるレストランがオープンし、洋酒・洋菓子の売店、ボーリング室も設けられた。宿泊客のハイネは、ここで美味な料理をとれると賞賛し、シーボルト親子やクラーク博士、ワーグマンなどの著名文化人も多数、宿泊し滞在した。

 横浜を代表する洋菓子「レーズンサンド」などで、全国的にその名が知られるフランス料理&洋菓子の「かをり」は、この日本のホテル・洋食・洋菓子を始めとする西洋文化発祥の地といわれる「居留地七十番地」(現在の山下町70番地)に本店が建つ。

昭和22年喫茶店からスタート

 昭和22年(1947年)現社長 板倉敬子氏の母板倉タケさんが、2坪ほどの小さな喫茶店を開いた。場所は横浜市南区の横浜橋。ここは戦前から賑わっていた商店街で、終戦後はマーケットが開かれ、食料品などの生活必需品が販売されていた商店街で、現在もなお、故桂歌丸師匠の地元としても賑う商店街である。

「祖父の板倉作次郎が日本郵船の豪華客船『龍田丸』の司厨長(船舶料理を担当する統括責任者)を長く勤め、父の富治も日本郵船の船乗りをしていたことから、戦後間もなく食糧難の時代にもかかわらず、コーヒー豆と砂糖がたくさんありました。そこで母が喫茶店を始めることにしたのです。」(板倉社長)

 当時は甘味料にサッカリンが代用されていた時代だった。空襲で横浜市の中心市街地が焦土に化してから2年で、ほとんどの食料が不足。本格的な外国のコーヒーと純粋の砂糖だけを使ったコーヒーの喫茶店は、横浜にほとんど無かったことから、喫茶店「かをり」は、人気を呼び大繁盛した。

「母は、それまでビジネスをしていた経験は全くありませんでした。ですから喫茶店の成功は大きな自信になったはずです。」(板倉社長)

「かをり」の屋号は、現社長 板倉敬子氏の父富治氏が、江戸時代中期の国文学者、本居宣長の「敷島の 大和心を人問はば 朝日に匂う山桜花」という和歌から名付けた。

「朝日の中に輝いて、かぐわしい匂いを、辺り一面に放っている山桜の花に日本が象徴される。この歌にあやかって、桜が日本の象徴であるように、『かをり』も日本の象徴になれるよう発展していくように努力したい、との思いを込めて名付けた。」(板倉社長)

昭和23年伊勢佐木町5丁目に西洋レストラン開業

 喫茶店の成功で、父富治氏は、それまで勤めていた日本郵船を退社し、「かをり」初代社長として、昭和23年(1948年)、当時横浜市で最も賑わう商店街である伊勢佐木町5丁目で、祖父の板倉作次郎氏と母タケさんと3人で、本格的な西洋レストラン「かをり」を開業した。

 祖父の作次郎氏による呼び掛けに太平洋戦争でほとんどの船舶が沈没し、腕を振るう職場を失っていた部下の腕利きのコックたちが「板倉さんがやるのなら」と応じて多数集まった。欧州航路などを運行する豪華客船「龍田丸」(現在の日本郵船の「飛鳥」は龍田丸がモデルと云われている)で鍛えられた名コック達によるフランス料理は評判を呼び店は大繁盛し、「押すな押すなの人でした」。(板倉社長)
こうしたコックの中には、日本が徐々に復興してホテルが出来始めると、名古屋のオリエンタルホテルの総料理長として迎えられて行った竹貞氏のような方もいた。こうして、「かをり」は横浜屈指の西洋レストランの地位を築き始めたのである。

昭和30年伊勢佐木町2丁目に3階建て鉄筋ビル

 西洋レストランを開業して8年後の昭和30年(1955年)に、伊勢佐木町2丁目に鉄筋3階建てのビルを建て、さらに本格的な西洋レストラン事業を発展させて行った。

 外観はアクリル樹脂を多用し全面ガラス張りのような感覚で1階から2階への移動は、当時は珍しかったらせん階段を用いた。京都からふんだんに竹を取り寄せ竹で壁を作り、2階にはお座敷を設け3階は全部お座敷宴会場になっており、和洋折衷のモダンな雰囲気は人々の心を捉え、連日満員の大盛況だった。戦後10年の当時としては鉄筋コンクリート建てビルは珍しく、近所に建ったばかりの(株)有隣堂と共に、「伊勢佐木町に鉄筋コンクリートの時代が来る」と大きく新聞にも掲載されたほどであった。

 当時は東京からも湘南海岸での海水浴帰りなどに大勢お客が押し寄せ、大変繁盛した。文化人も多く、特に作家 山本周五郎が常連で、食事だけでなく新聞記者や雑誌記者を集めての記者会見なども行った。その人柄と気っ風の良さから、いつもコックやボーイたちの間でも人気者だったそうである。