渡辺大輔のデパート放浪記 - ペンを捨てよ、街へ出よう - (第15 回 )
岐阜でも弘前でも、デパートを失った時に聞こえてくる共通の言葉がある。「家族との思い出」だ。
岐阜タカシマヤの最終営業日、私が加わった開店前の行列には親子連れ、また孫も一緒に並ぶ姿があった。取材に来ていた記者たちは、私のような一人できょろきょろしている中年男性よりもそちらの方を好むもので、手帳やカメラを構えて近づいてゆく。語られるのはやはり、遠い日の「家族との思い出」だった。
正面玄関を抜けるとすぐ左手に、学校の黒板に似た大きさのボードが立っている。そこには約10 センチ角の紙がびっしりと貼り付けられていた。
——小さいころデパ地下で歯医者さんの帰り、祖母と買い物しました。
訪れたお客が書き残していった、別れの言葉たちだ。
——母との想い出の高島屋。姉がずっと勤めた高島屋。永い間お疲れ様でした。
このメッセージは千葉から足を運んできた女性のものらしい。
お土産に必ず親が買ってきてくれた「御座候」や、祖母に連れられて行った「あかさたな」など、デパートの記憶はかつての家族とつながっていて、また閉店前に訪ねていく動機もそこにある場合が多い。
弘前においても、中三を振り返って語られるのは親の買い物に付いていって遊んだ「ゲームコーナー」や、おとなしくしていたご褒美に食べた「中みそ」だ。
イトーヨーカドーにも岐阜タカシマヤと似たボードがあって、ボールペンで書かれた閉店への悲しみが貼られている。
——おばあちゃんに会いにくるといつも連れてきてくれた。ありがとう。さみしい。
——結婚して東京に住んでいますが、子供のとき母とよく買い物に来て楽しい思い出がいっぱいあります。
やはり昔からなじんだ商業施設には、家族との思い出が宿っているのだろう。
数カ月が経った今でも、岐阜タカシマヤが最後のシャッターを下ろした夜は脳裏に鮮明だ。
7月31日18時50分、普段はのれんのはためく音すら聞こえそうな閑散とした劇場通りに、歩くのが困難なほどの人だかりができていた。幕引きの瞬間を見届けようと詰め掛けたその数は、およそ2千人だという。
アーケードによって覆われた熱気で、肌で感じる湿気は異様なものになっていた。警官も動員され、通路を確保するために拡声器で延々と群衆に注意を促している。一人、また一人と玄関からお客が出てきて、いよいよ閉店時間の19時となった。
皆がカメラやスマートフォンを掲げ、セレモニーの始まりを待つ。そのまま15分ほど過ぎたころ、マイクを通した女性の声で岐阜タカシマヤの歴史が振り返られた。
「皆様と、最後の時をご一緒させていただきます」
2千人に緊張が走る。「セレモニーまで今しばらくお待ちください」
どっと笑いが起こった。おあずけを食らった群衆は嘆くでも怒るでもなく、むしろほっとしたように表情を和らげた。
程なく玄関前に社長と従業員が並ぶ。それぞれが顧客と柳ケ瀬に別れを告げて、19時40分、一同が深く頭を下げ『ばら色の人生』が流れる中、最後のシャッターが下り始めた。
感謝やねぎらいの言葉が飛び交う。私はあらためて、これは葬式だと感じた。
だが何の葬式だろう。タカシマヤだろうか。柳ケ瀬商店街だろうか。どちらとも違う気がする。
ふと頭をよぎるものがあった。宿泊先のホテルからここへ来るまでに見た光景だ。
ホテルは「玉宮通り」の近くにある。飲食店が集まった繁華街で、駅のそばということもあってか比較的人通りも多い。いわゆる「ヤンキー」が多い場所でもあり、劇場通りではあまり見かけない格好の若者が道端で談笑をしていた。
私は一つの仮説にたどり着く。
——これは「家族の思い出」の葬式ではないか。
惜別の声を浴びながら、岐阜タカシマヤは沈黙を迎えた。
(続く)