英雄たちの経営力 第12回 大隈重信 その1
分かりにくい男
大隈重信という名を聞いたことのない人は少ないだろう。では何をやった人かと問われれば、十人中九人が「早稲田大学を創設した人」と答えるはずだ。かくゆう私も卒業生の一人として、歴史に携わる前までは、それしか知らなかったと言ってもよい。
確かに大隈の事績として、早稲田大学の創設は大きなものの一つだ。しかし大隈が、それだけにとどまらない多大な貢献を国家にしてきたのも事実だ。
だが、なぜ分かりにくい男になってしまったのだろう。
その理由の第一は、天保九年( 一八三八) に生を享けた大隈は、大正十一年( 一九二二) まで八十三年の人生を歩んだことにある。つまりあまりに多くの事績を残したので、それを一言で表せなくなってしまったのだ。
第二点として、幕末期に政治活動に従事しておらず、志士としての実績がないことが挙げられる。つまり勇壮な話題に乏しいのだ。
第三点として、明治維新後は藩閥政治の打破を目指していたこともあり、薩長両藩の関係者から冷ややかな目で見られていたこともある。これにより大隈の死後、その主導した様々な事績も薩長出身者のものとされてきた。
第四点としては、明治十四年の政変で伊藤博文との政争に敗れて下野した後、政府と野党の間を行き来し、「政局の人」というイメージが定着したことだ。いわゆる典型的政治屋というイメージを持たれたことも痛かった。
そして第五点として、大隈が直筆の文章をほとんど書かず、その時々の彼の感懐が伝わりにくくなっていることも挙げられる。
かくして「分かりにくい男」となってしまった大隈だが、本稿では最新の研究成果を基に、その実像に迫っていきたいと思う。
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作 伊東 潤
『黒南風の海 – 加藤清正』や、鎌倉時代初期を描いた『夜叉の都』、サスペンス小説『横浜1963』など幅広いジャンルで活躍
北条五代, 覇王の神殿, 琉球警察, 威風堂々 幕末佐賀風雲録 など。