英雄たちの経営力 第9回 田沼意次 その4

意次の経営手腕(承前)

 それは大小あるが、以下の四つの大きな政策に絞って評価していきたい。

  • 印旛沼の干拓
  • 蝦夷地開発
  • 両替商役金制度
  • 貸金会所構想

 まず「印旛沼の開拓」だが、利根川の下流にある二十万平方キロメートルにも及ぶ印旛沼は、もし干拓に成功したら約三千九百ヘクタールもの新田が生まれる巨大なプロジェクトだった。すでに享保の改革の頃から計画・着手されていたものの、資金不足で中断していた。これに目をつけた意次は、天明四年三月に測量を行い、翌天明五年末頃から着工した。ところが天明六年七月、利根川が氾濫し、すでに済んでいた「〆切普請」が水泡に帰すことで、印旛沼は元の状態に戻ってしまった。この頃、ちょうど将軍家治は死の床に就いており、また意次自身も追い込まれていたため、この政策は頓挫する。

 続いて「蝦夷地開発」だが、これは、仙台藩士の工藤平助が書いた『赤蝦夷風説考』という著作を読んだ意次が調査を命じたことに端を発する。本書は天明三年に書き上がったというので、これも田沼時代の最末期にあたる。この頃は「天明の飢饉」や浅間山の大噴火が重なり、また印旛沼の干拓にも力を入れ始めた頃なので、天明四年中頃まで動きが取れなかった。しかしようやく動き出した同年三月、意知が殺され、田沼時代の終焉が見えてきたので、このプロジェクトは苦しい船出となった。それでも意次は蝦夷地の鉱山を開発し、そこから上がる金銀銅を原資としてロシアと交易するという構想を掲げる。この計画は勘定奉行の松本秀持が積極的に進めたこともあり、意次の隠退後も続けられる可能性があった。しかし調査の結果、鉱山開発は見込みが薄いとなり、蝦夷地の新田開発策に切り替えられた。しかし資金、技術( 凍土なので)、労働力の面で、蝦夷地の新田開発は夢物語でしかなく、進捗が見られないうちに自然消滅してしまった。

 第三の「両替商役金制度」は、天明元年、金座を取り仕切っていた後藤庄三郎からの陳情が発端になる。田沼時代には金貨の鋳造がなかったため、金座で働く人々が困窮し、金座が解体の危機に瀕しているというのだ。金座の技術が失われれば、金貨の鋳造はできなくなる。そのため意次は、傷ついた金貨( 軽目金) を両替商から金座へ出させて修理させることで、両替商から役金( 手数料) を徴収しようとする施策を思いつく。

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伊東 潤