英雄たちの経営力 第7回 白河上皇 その1

古代から中世へ

 「賀茂川の水、双六の賽(さい)、山法師( 比叡山延暦寺の僧兵)、これぞわが心にかなわぬもの( 思い通りにならないもの)」と言ったとされる白河上皇は、まさにそれ以外のものはすべて、思いのままになるほどの独裁体制を確立した。その力の源泉は財力だった。本稿では、白河上皇が「荘園や公領の収取(しゅうじゅ)体系」をいかに築いていったかを概括し、院政という独裁体制を築くに至ったかを考えていきたい。

 中世的な社会・経済システムが構築されたのは、平安時代後期の院政期と言われる。そもそもヤマト王権( 大和朝廷) や飛鳥王朝を引き継いだ古代国家日本には、律令制度が導入されていたとはいえ、中央集権的な要素が弱く、畿内の一部を除けば、地方豪族に交易や貢物の収受を任せるしかなかった。すなわち豪族たちの勢力圏には中央政府の威令が届きにくく、地方の行政府たる国府を設置したとはいえ、地域の統治全般を豪族に託さざるを得なかったのだ。
すなわち平安時代中頃までは、いかに迅速に効率よく実物貢納経済を実現するかに主眼が置かれ、豪族ごとの独自のやり方に国府や中央政府が従わざるを得ない側面があった。また豪族たちの不正も横行し、中央政府に貢納される作物や産品も予測できない状態だった。 すなわち中央政府に集まる富が予測できないとなると、国家予算が立てられず、大規模土木工事や国軍の編制などもままならない。

 そうしたものを打破し、中央集権制すなわち「各地の貢納物を中央政府が一元的に吸い上げるシステム」を確立したのが院政なのだ。

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伊東 潤