デパート破産 第2回 ~山形県からとうとうデパートの灯が消えた~
「⼤沼デパートは、ずっと特別な存在だったのだろうか」
⾃らに問えば、否定の⾔葉しか⽤意がない。同世代の⼭形県⺠に尋ねても、似た反応を⽰す者が多いはずだ。
私が⽣まれたのは1980年、⾼校野球で荒⽊⼤輔が活躍した年だ。出産を控えた家庭の多くが、その勇姿に⼼を打たれたのだろう。「⼤輔」と名付けられる⼦が急増したという。私もその中の⼀⼈だ。
幼いころに⾒たデパートのことは覚えている。1階の化粧品売り場に⺟の友⼈が居たからっだったろうか。カウンターに座って話し込む⺟の背中と、天井の輝く照明を交互に眺めていたような気がする。おとなしくしていたごほうびにと、レストランでクリームソーダを⾷べさせてもらった記憶もあるが、いずれもひどく曖昧な映像としてだ。それが⼤沼での出来事だっ たかすら怪しい。
⼩学校の⾼学年に上がると、友⼈たちと街に遊びに⾏くことができるようになった。家は中⼼街から⾞で10分ほどの距離にあったので、移動には路線バスを利⽤した。
それはまさに「お出掛け」で、道沿いの建物が太さと⾼さとを増していけば、⼤⼈の世界に忍び込む⾼揚感にしびれたものだ。街中の停留所で降りる。にぎわいの間を擦り抜けて、まずはハンバーガー ショップを⽬指した。そこで昼⾷を楽しんでからアニメ映画を観る、というのが我々の計画だった。
道中、⼤沼デパー トのそばを通っているはずだ。だが「⼊ってみよう」とは誰も⾔い出さなかった。⼦どもだけで⼊ってはいけない。何となくそんな了解があっ たのかもしれない。
⾼校に⼊学するころには、⼩学校時代からの友⼈たちとは⽣活の場を別にしていた。映画館へ⾏くのにバスは要らず、⾃転⾞にまたがれば済むようになった。とはいえ嬉々として中⼼街に通っていたわけではない。私をときめかせるのはもはや「仙台」に変わっていた。⼭形駅近くのターミナルから⾼速バスに乗り込めば、やがて宮城県との境を越え、1時間ほどで仙台に着く。料⾦は当時千円ほどだっただろうか。そこに往復割引があっ た。
学校に内緒でアルバイトを始めた私にとっては、さしたる出費ではない。⼭形の街とは⽐べ物にならない「都会」を味わう興奮に、幾度も財布を開けさせられた。
インター ネットに触れたのは、⾼校を卒業して間もなくだ。それは世界の⾒え⽅を⼀変させられるほどの体験だった。遠く離れた顔も声も知らない⼈たちと、画⾯を通して⽂字のやりとりができるのだ。⾃転⾞をこがなくても、バスに乗らなくても、椅⼦に腰掛けたまま東京や⼤阪に⾶んでいける。通信料の安くなる夜中を待っ てインターネットに接続し、親が枕から頭を離す⼨前までキーボードをたたき続けた。
こうして私は、体だけを⼭形に置いた。華やぎを求めれば仙台がある。新しい出会いや発⾒の喜びはインターネットの中に散らばっている。地元の中⼼街に⾜を向ける動機は「節約」だけになった。
つまり欲しいと思った物が⼭形に売っていれば、仙台までの交通費が浮くというわけだ。だが⼤抵の場合、その期待はかなわなかった。「じいちゃんにお歳暮なんかを持っていくとね、松坂屋の包み紙だと機嫌が悪い。⼤沼のだとうれしそうにする」
ある時、⺟親が苦笑いしながら話した。今思えば、困ったものだという気持ちと、それもそうかという納得とが相まっての表情だったのだろう。
当時の私はといえばそんなものかと聞き流しただけだ。同調も反発も起こらない。⼼を都会やインターネットに⽻ばたかせた私にとって、⼤沼デパー トは視界の外にある、ただの点だったのだ。