横浜老舗フランス料理&洋菓子の「かをり」 その歴史物語-(第3回)

昭和56年洋菓子販売部門を設立

 長洲知事の奥様からの注文がきっかけとなり、「お菓子であれば、プレゼントや贈答で一度に多くの皆さんに召し上がっていただけます。これはいける」と確信した板倉社長は、昭和56年(1981年)に、一階駐車場横に洋菓子部門を立ち上げ店頭販売をスタートした。

 レジ横に冷蔵庫を設置して、トリュフの販売を開始したところ、徐々に口コミで知られ始め、人気が出て評判が広がり、注文が殺到してきた。注文に応じ増産すべく、ベーカー(パン・菓子職人)に増産を要請しても、ベーカーは「そんなに作れない」と及び腰の上、作り方を聞いても職人根性なのか答えてくれず、困った板倉社長は結局、自身で作ることを決意した。
「材料は仕入れで分かっていました。そこで店が終わったあと、母にも協力を求めてチョコレートとカカオバターを削り、ブランデーの入れ方も頃合いを見て入れたり、エバミルクを入れたりして一生懸命作りました。なかなかうまくいきませんでしたけれども、ある時、苦労したかいがあって、おいしくできました。私独自のトリュフができたのです。」
(板倉社長)

心をこめてトリュフ作り

 トリュフチョコレート作りは、まずチョコレートの芯を鉄板でいったん冷やす。この芯に、一つはブランデー、一つはグランマニエル(オレンジリキュール)が入っている。それがしみ出さないように、今度は皮付けをする。その時に、チョコレートは温度に敏感なので、ちょうど体温よりほんの少し高いぐらいに手で触って付ける。両方にシュガーパウダーとココアパウダーの鉄板を置いておいて、そこに芯をフォークの先に付けて転がしていく。転がすにも、ちょっと距離が短いと上手に丸まらない。らせん形を描くとまんべんなく付くので「バラの花を描くようにやりましょう」、芯の周りをこねていくので「この手から真心がお客様に受けるのでしょう。これは赤子の頭をなでるように優しくやりましょう」と板倉社長が女性スタッフに教えた。

 このトリュフ作りを通して「心をこめて作れば必ず売れる」が、板倉社長の信念となった。

西武百貨店で初の催事販売

 やがてトリュフは西武百貨店船橋支店の催事担当者の目にとまり「催事をやってください」という申し出を受け、一週間催事場で販売した。

 それがきっかけになり、「今度は常設しないか」という誘いが西武百貨店の主力店舗、渋谷支店から掛かった。「でも、トリュフだけでは出してあげることは出来ない」と言われ「レーズンの入ったクリームをビスケットで挟んだレーズンウィッチというかレーズンサンドのようなもの」を宿題に出され、「それが出来たら出店させてあげる」と言われ、いよいよレーズンサンド創作が始まったのである。

1年間の試行錯誤を経て、看板商品「レーズンサンド」誕生

 その頃、「かをり」のベーカー2人はデザート菓子しか作っておらず、板倉社長はレーズンサンドを作るにはどうしらた良いかと考え、店の前に雪印の支店が出来たので、紹介を受けて東京の雪印研究室に通うこととなった。

 皮となるビスケット作りは難しく、6月頃になると湿気ってしまって、べとべとになり、ひび割れてしまい、なかなか歯触りのよいサクッとしたものが出来なかったのである。板倉社長が一生懸命試行錯誤し、雪印研究室のメンバーの協力も得て、ようやく一年かかかってビスケットが出来上がった。

 一方、レーズンサンドに使うレーズンは、「カリフォルニア・レーズン」という特別なレーズンを明治屋から仕入れ、大きな寸胴鍋に入れ砂糖を加えて煮込み、それに高級ブランデーを入れて漬け込んで10日間ぐらいかけて味を染み込ませて作った。

 こうして出来たレーズンと、口溶けのなめらかなクリームを、バターの香りが広がるビスケットでサンドして「かをり」を代表する「レーズンサンド」が誕生した。

西武百貨店に初出店、レーズンサンド人気呼ぶ

 西武百貨店からの宿題をクリアし、レーズンサンドとトリュフでもって、昭和55年(1980年)西武百貨店渋谷店に初出店することが出来た。

 そこで好評になり、それからだんだん一店ずつ増え、松坂屋、高島屋、日本橋三越、小田急、阪急など、いろいろな百貨店から声がかかり、当時37店舗まで広がり、レーズンサンドは文字通り「かをり」の看板商品に育ったのである。

 当初は、本社7階の一室に近所の女性30人ぐらいが集まり女性パワーで、トリュフとレーズンサンドを手作りしていたのであるが、徐々に注文が多くなると、とても間に合わず、昭和57年(1982年)横浜市金沢区に、横浜市のあっせんで共同センターの一画を買い取り、本格的な生産体制を整え現在に至っている。