横浜老舗フランス料理&洋菓子の「かをり」 その歴史物語-(第2回)

昭和45年山下町に現在の7階建店舗オープン苦難のスタート

 昭和44年(1969年)、母タケさんが米国に視察に行き、庭を活用した郊外型レストランを学んで帰ってきた。「両親は庭を活用した借景のあるレストランを開きたかったよう。しかし、気に入った土地がなく探しているうちに今の土地が見つかりました。もちろん、当時は、ここが日本洋食文化発祥の地だとは全く知りませんでした」
(板倉社長)

 昭和45年(1970年)、日本大通りの向こう側で大さん橋通りに面した現在の住所(山下町)に、7階建てビルを建てて再度移転し、個室、宴会場を備えたフレンチレストランをオープンした。

 日本大通りは、今でこそ横浜の代表的な街路として名高く、ビジネス街で観光地としても賑わい県民ホールや横浜スタジアムから多くの人が行き交う。だが、当時は、まだこうした大型施設は建っておらず、殺風景な場所で閑散としていたせいで、客足が遠く「3年間は閑古鳥が鳴くほどに大変苦労しました。」
(板倉社長)

 横浜雙葉学園高校、聖心女子大学を卒業した典型的なお嬢様育ちながら、母タケさんから事業を引き継いだ板倉敬子社長は、そうした逆境の中、「両親が借金を抱えて、この店を建てたのですから、一生懸命働かねばと自分を励まし、幼稚園に通う2人の幼子を抱えながら、朝から晩まで年中無休で働きました。」
 (板倉社長)

 当時珍しかったケータリング(食事の配膳、提供)を始め、母校の聖心女子大の総会に400人用の料理を提供したり、近くの神奈川県庁の職員向けに、採算を度外視した日替わりランチを開始したり、オフィス街で人が少なくなる土日にクラス会を呼び込むなどの努力が実り、徐々にお客が集まり「かをり」の名が広がっていった。

「日本のフランス料理の父」小野正吉氏に感謝

 「かをり」は、多くの方に支えられた。中でも特に親しく板倉社長を親身で支えてくれた人物が、ホテルオークラ初代総料理長で、「日本のフランス料理の父」と呼ばれる小野正吉氏である。「ざっくばらんな方で、よくお電話もいただき大変お世話になり深く感謝しております」
(板倉社長)

 小野正吉氏は、昭和46年(1971年)に日本全国のフランス料理シェフの会「日本エスコフィエ協会」(会員1200名)を、帝国ホテル総料理長 村上信夫氏らと共に創設し、フランス料理の伝統の継承と発展、調理技術の再教育などの活動に尽力したことで知られている。

手作り洋菓子の販売 お菓子の出発点トリュフ誕生

 現在、各種洋菓子の製造販売を事業の中心とする「かをり」だが、洋菓子のきっかけは昭和50年(1975年)横浜国立大を退官し神奈川県知事になったばかりの長洲一二(註:ながすかずじ 神奈川県知事1975年~1995年5期20年)氏が店を訪れたことだった。

「知事にサービスでトリュフのチョコレートをお出ししたら、美味しいと召し上がられたので、残りましたのを紙にお包みして、ポケットに入れてお帰りいただいたのです。すると間もなく、知事さんの奥様から、お電話を頂戴して『30箱ぐらいのお土産にしてください』と言われました。「わあ うれしいなと思いましたが、箱もなければ説明書きもございません。私は手作りで間に合わせることにしました。トリュフはころころしてしまうので、ころがらないような間仕切りを作りまして、自分で箱を見つけて整えて、トリュフの説明書きを添えました。トリュフというのは、フォアグラとキャビアと並んで世界三大珍味と貴ばれているきのこのトリュフを、かたどったチョコレート菓子です。『トリュフというのは松露をかたどって作ったものでございます。常温では28度くらい以上になりますと溶けますから』というような説明書きを慌てて作って印刷屋に出して、何とか無事、奥様にお届けすることができました。」
(板倉社長)