デパート破産 第18回 ~山形県からとうとうデパートの灯が消えた~

 山形市・大沼の創業から破綻までを追った自著『さよならデパート』のあとがきに、このような一文を書いた。

 —もしかしたら私たちは、デパート以上の何かをなくしたのかもしれない。

 この真意について何度か尋ねられたが、実は口頭でうまく説明できたことがない。

 私の父は、55歳で突然亡くなった。休日の昼をやや過ぎたころ、自宅の風呂に入っている最中だったようだ。運悪く家族はみんな外出していて、異変に気が付かなかった。

 日暮れに帰宅した私の弟が、浴槽で動かなくなっている父を発見した。検死では、心臓か脳で何事かが起こったのだろうとされた。

 父は、家では静かな人だった。毎週日曜に、千円の馬券を12レース分買う。趣味といえばそれくらいだ。夕飯をつまみながら酒を飲み、皿が片付けられたら横になって、テレビを眺めながらまた飲む。たまにくだらない駄じゃれを言って、家族の冷笑を浴びる。そんな過ごし方をしていた。

 どこもそんなものかもしれないが、私は思春期を境に父とあまり話をしなくなった。嫌っていたわけではないが、気恥ずかしさからだろう。どう接していいか分からなくなっていたのだ。

 それが習慣化して、社会に出てからも雑談らしい雑談はめったになかった。一度、「忙しくて食事が用意できない」という母に促されて、二人きりでラーメン屋に入ったことがある。カウンターに通され、肩を並べて麺をすすった。味よりも沈黙の気まずさばかりを覚えている、父も同じだったのかもしれない。

 弟は高校時代に、両親に対して私よりも激しい反抗を見せた。玄関の怒号が2階の自室までよく響いてきたものだが、いつの間にか友達のような気軽さで接するようになっていた。日曜になると、父と弟が連れ立って近所の温泉に出掛けてゆく。私はその姿を横目で見ながら、自分があの輪に加わることはないだろうと感じていた。

 20代半ばに差し掛かったころ、私は結婚し実家を出た。借りた住まいは父の通勤路の途中にあったので、朝たまに訪ねてくることがあった。

 母のお使いだろう。持たされた手料理を玄関先で渡すと、「どんなだ?」と何についてか分からない質問をしてくる。私も「まあ、まずまず」とやはり何についてか分からない答えを返しておしまいだ。

 そんな生活が急に終わった。友人の結婚式があった日、その3次会の最中に弟からの着信があった。嗚咽を漏らしながら実家への道を急いだが、まだ頭の片隅ではうそだろうと思っていた。

 仏壇の正面に敷かれた布団に、父が横たわっている。顔には白い布が掛けられていた。それらしい覚悟をする間もなく、私と父との関係は終わった。

 時が過ぎる。私は料理店を開き、並行して出版も手掛けるようになった。大沼デパートについて調べてみると、その周辺には多くの「知らない山形」があった。悲惨な災害や、鬼のような県令、大型店と中小商店の熾烈な争いなど、それらの物語は漏れなく私の胸を躍らせた。

 —これをもっと早く知っていれば。

 私は山形が好きだったのかもしれない。

 2020年1月、大沼がなくなった。消えたのはデパートの明かりだけではない。私たちは、中心街の320年を見つめてきた「物語の証人」を失ったのだ。

 私は父のことをあまり知らない。大沼のことも、故郷のこともほとんど知らなかった。

 それでもご飯は食べていけるのだけど、この欠落を死ぬまで抱えていくのだろう。