特別寄稿 ムダの研究 デパート新聞社 社主 田中潤

 私の生き方の指針を披露した「無駄の物語」「資本主義からの脱出 ムダの効用の話」の2冊の拙書は、思いがけず多くの方々から共感の声をいただき、今の時代に対する強い問題意識を持っている人々が少なくないのだと、少しホッとした思いでした。

 今回は、夏の特別寄稿として、改めてムダについて語ります。

ムダの効用とは

 ムダの効用とは、日常生活で自然に優先してしまう判断基準の逆を行くことが、人間関係の円滑化の観点からは概ね当たっているという考え方です。資本主義社会の中で生きる私たちは、常に経済的合理性を優先する考え方を基本として据えています。そして、それがモノに対してだけでなく、ヒトに対してもそのような行動をとってしまうようになっているのです。

 お互いが合理的な判断をし、自分のメリットばかり追っていては良いコミュニケーションが出来るはずありません。多くの場合、自身にとって非合理的な行動をとることの方が、相手とのコミュニケーションにはよい成果をもたらしてくれます。そして、その思いの根本にあるのは思いやりの心なのです。

 ムダとは人に対して自然に湧き出る思いやりの心を体現することに他なりません。

具体的なムダ

 では、ムダなことを具体的にどうやって見つけるのでしょうか、それは、とても簡単です。皆さんが日々自然にやっている合理的な行動を客観的に俯瞰し、その逆つまり合理的でないことをすることなのです。そして、この行動はなんでもそうすべきだということではありません。人に対して生じるムダと限定して良いです。つまり、ムダだと思うことをする際には常に相手があります。

 では、いくつか具体例を挙げましょう。

1.挨拶

 拙書でも、細かく記述しましたが、挨拶は最もムダなことの一つです。基本的にこのやりとりにおいて経済的利益の発生はありません。つまり、資本主義的思考において挨拶に合理性はないのです。非合理なことだからこそ、積極的にすべき代表的な行為といえるでしょう。

2.与える人になること(ギバーになること)

 相手に対して無償で、有形、無形のモノを与えることに経済的合理性はありません。自分にとって予め利益がないとわかっていることを、相手の為にしてあげることこそ資本主義においては最も非合理なことであり、ムダなことなのです。その正反対の人といえるトランプ大統領のテイカー(得る人)ぶりは、ギバー(与える人)の大切さをはからずも十二分に教えてくれます。

 そして、ギブすることで、自分自身も温かく少し幸せな気持ちになります。人生において、もっとも尊い時間を得ることができるのです。

3.待つこと

 今、有名飲食店で食事をするために1時間くらい並ぶことは決して珍しくありません。「待つこと」は一つのルールとして確立されています。しかし、日常生活でわずかな時間も待てずに自分の行動を優先させてしまうことは、しばしばあります。

 電車を待つホームやエスカレーターでの横入り、横断歩道で歩行者が立っていてもスピードを緩めず通りすぎる車、他人同士が乗り合わせたエレベーターでドアが開くなり、回りの人たちがいることを忘れたかのように先を争い降りる人々、ちょっとした「待つこと」さえ、出来ない人が沢山います。そうした時も、例えばエレベーターの「開く」のボタンをずっと押していて、最後に降りる人はいるものです。

 相手の存在を俯瞰して自分の行動を自然に譲ることが出来る人が、ムダの達人です。

4.お金を遣うこと

 誰かのためにお金を遣うことは、非常にむずかしいことです。特に資本主義的思考では、経済的利益を得る為にタダでお金を遣うのは賄賂など良からぬことに繋がるという概念が働きます。ここでも資本主義は、人の行動を非人間的な生き方へと誘導するのです。

 しかし、お金は単なる手段に過ぎません。コミュニケーションを円滑にするためにはお金をムダに遣うことは、一つの有効な手段です。つまり、自分の利益の為でなくお金を遣うことも時と場所によっては、当たり前に行なわれてよいのです。人の為にお金を遣うこととして、最も明確な行為は寄付をすることです。

 日本は寄付文化が極めて脆弱です。それは戦後、資本主義を基軸とした欧米の歪んだ合理的思考だけが普及したということが遠因にあります。

 その結果、日本は世界的に見ても極めて寄付をするということに、冷めた思考の国となってしまいました。皆が進んでムダをするという思いをもって、自然に寄付をしてしまう社会にしていかなければなりません。

 最後に、誰かの為にお金を遣うことの最も即物的な例として″奢ってあげること〟について一言。これも人間関係の円滑化を考えれば、無意識に行なって良いことだと思います。割り勘を、公平性の象徴のようにしてしまったのも官僚の横領や政治家の我欲が高じたことでの副産物です。私たち庶民の日常生活は、もっと豊かで自由なコミュニケーションがあっても良いのではないでしょうか。