デパートのルネッサンスはどこにある? 2026年05月15日号-第138 回 バブルとともに去りぬ —デパートの過去と未来—


本コラムでは、閉店連鎖が止まらない日本のデパートを勝手に「絶滅危惧種」と呼んできた。人口減少という「氷河期」に、バブル崩壊という「巨大隕石の衝突」が加わり、デパートという名の恐竜は絶滅する運命にある、という思いからだ。
今、日経平均株価が6万円台を突破したというニュースは「バブルの再来」なのかどうか、筆者には判らない。だが、日本が、そして日本の経済が強く、豊かになったという印象は全くない。この「失われた30年」の間に一度もそう思ったことはないのだ。
なぜだろう。あるのは、バブル期と「デパートが日本の小売りの王様」であった日々は二度と戻らないだろう、という漠然とした達観だけだ。本稿で少し考えてみたい。
渋谷で唯一の百貨店である、西武渋谷店の2026年9月の閉店が発表された事を受け、本コラムでは、様々な切り口から論評を試みてきた。過去の回でも言及しているが、渋谷西武が属していたセゾングループは解体して30年近く経過しており( 失われた30年?)、今更「西武がなくなる渋谷」を回顧しても、もちろん懐古しても遅いのだ。
西武なき渋谷、というか東急による渋谷の街づくりを嘆いても、仕方ないのだ。
筆者は前号で、渋谷のサクラステージには思っていたより客が少ない、と記したが、逆に言えば、ヒカリエやスクランブルスクエアは盛況だ。
このコラムを書いているゴールデンウィークの盛況ぶりは言うまでもなくだ。
さて、エクスキューズが済んだところで本題に入ろう。


すべての答えは客の中にある
西武百貨店渋谷店の閉店をめぐり、流通(小売り)業界ではいろいろな意見が出た。
一つは東急の動向も含め、渋谷という街が今後どうなっていくのか?もう一つは、渋谷から去った西武が池袋では生き残れるのか、というかそもそも旧セゾングループ(そごう・西武ではない)に未来はあるのか、という問題だ。
渋谷については、東急の再開発の見通しがどうなるか、であり、西武の問題は半減した池袋店が、かつての様な輝きを取り戻せるか、という事だろう。と、まあ、いわゆる評論家の様な当たり障りのない事を書いたが、実際はどちらの答も半分しか合っていない。
なぜなら、どちらのケースも答えの半分はすべて顧客が、すなわち消費者が握っているからだ。
東急が渋谷をどうする、とか、西武は池袋で復活するかは、顧客、消費者、来街者、もっと広く言えばステークホルダー次第なのだ。
人口減少と格差
日本は今、人口減少により絶対的な客数が減っている。そして、デパートにとって更に問題なのは少子高齢化だ。いやいや、百貨店の顧客は高齢者なのだから、相対的に人数の多い老人が顧客なのだから、しばらくは安泰なのでは、という声が聞こえて来る。
これも前述のクイズ?同様、半分だけ正解なのだ。年寄りのすべてがデパートの顧客ではないからだ。特に地方デパートでは全国的な人口減(自然減)に加え「過疎化」という、社会的なもう一つの人口減少が重なってくるし、デパートの性質上、格差社会(貧富の差の拡大)も「デパート離れ」の大きな原因となる。都市部への人口の「一極集中」については、いうまでもない。
こう考えて行くと、今現在は「何とか持ちこたえている」地方デパートも、仮に5年間は「やりくり次第で」何とかなるとしても、10年20年先に「明るい未来が待っている」とは言えないのだ。そして、都心と地方の差は広がる一方だ。
中国からの訪日客が半減していることは、5月1日号の2面のインバウンド速報でご確認いただけると思うが、中国のマイナスを他国がカバーしており、トータルでは減少していない。一時騒がれた「爆買い」は沈静化したものの、都心のインバウンド景気は今尚健在だ。

富裕層シフト
元々、本コラムでは都心百貨店の心配はあまりしていない。都心の大手百貨店グループ(三越伊勢丹、髙島屋、大丸松坂屋、阪急阪神)は、いずれも過去最高益を更新して、意気揚々だからだ。もちろん、顧客の減少という大きな流れは受けており、減った顧客の帳尻合わせとして、松屋銀座の様にインバウンドにより頭数を増やすか、伊勢丹の様に顧客を富裕層に絞り込み単価を上げるか、戦略の違いはあるにせよだ。
冒頭で言及した渋谷西武閉店余波の話に戻るが、いずれにしても、顧客が、その趨勢(すうせい)を左右する事だけは、確かなのだ。東急も西武も、その他も。渋谷で生き残った東急は、渋谷に来る客の心をつかんでいられるのか? 池袋西武は新しいデパートとして池袋で復活できるのか?
筆者は、それは非常に難しい舵取りであろうと思っている。
頭の良い自社スタッフや、エリート揃いのコンサルが知恵を絞るのだろうから「惨憺(さ んたん)たる大失敗」は免れるかもしれないが、大成功というか「想像を超える熱狂」の様なコトは、もう二度と起こらないであろう。
シュリンク
識者の方々が、かつての渋谷や昔のファッション業界を、「絶賛」し憧れを抱いた、そんな街も、そんなデパートも、再び目にすることはなく、業界は少しずつシュリンクしていく運命なのかもしれない。これは地方だけでなく首都東京のど真ん中であってもだ。
バブル期という稀有な時代と、時代の寵児であった堤清二という特異な人物の組み合わせが、渋谷とセゾンという街とデパートが、爆発的に何かを生み出していたのかなぁ、と筆者は感嘆しつつ、思うのである。あぁ、またまた少しノスタルジー路線に傾いてしまった。反省。
この後は、街の趨勢を決める(規定する)側である顧客側の栄枯盛衰を考えてみたい。
バブル期を生きたバブル世代の正体を探るのだ。日本中のどこでもがバブリーだったあの時代だが、「六本木のディスコ」の様な象徴的な場所ではなく、我々の良く知っている街で考えてみよう。渋谷と池袋だ。※新宿の人、いつも省(はぶ)いてスミマセン。
渋谷に比べて、池袋の客は特に、バブル時に急にお金持ちになった庶民の出が多いのでは?と、勝手に推測している。
土地の価格が急騰した事で、田舎(失礼!郊外だ)にもミリオネアが出現したのだ。
言ってしまえば「土地成金」である。
※この成金は銀座や日本橋のデパートに代々お金を落としてきた、元々の金持ちとはちょっと違う。
こうしたバブル成金が西武百貨店のメイン顧客となったのではないだろうか、と筆者は考える。元々老舗百貨店の客は、派手で目立つファッションを嫌い、もう少しオーセンティックな嗜好のはずなのだ。元々ハイソでセレブでお育ちが良いからだ。
もちろん、事業を起こしたり、成城や松濤に住む元々の金持ちのジュニア世代も筆者の言う「成金」に含めて考えて良いだろう。むしろそちらの方が多いかもしれない。新進デパートの西武のお客様になった人びとは、年齢層も少し若いため、新進気鋭の奇抜なファッションを買い漁ったりした。見ただけで「あの人は最新ファッションを身に着けたお金持ちだな」と判るが、その人が最新ファッションを「着こなしていた」かどうかはここでは問わない。ブランドの服は成金の「称号」となったが、ブランドロゴを「ひけらかす」様な輩やからも少なからず含まれていた、と言ったら叱られそうだが。
セゾングループはこうした成金に「お金の使い方」を伝授して、啓蒙(けいもう)して売上を伸ばしてきたのだ。もちろん、こうした過程で、単なる消費者を生活者たらしめる「新しい生き方」を(啓発というと大げさだが)提案して来たのだ、と思っている。
「知的生活者になる方法」みたいな。
盛者必衰
成金と言っても、スーパーカーや金のロレックスを買うだけではないのだ。そういう意味ではセゾンは成金顧客を「筋の良い」富裕層に育てて行ったとも言える。
但し、当然バブルが崩壊した時にその顧客の多くは巻き込まれ、「成金」どころか「詰んで」しまったのだが。
一方、老舗百貨店の顧客であった金持ちは、成金に比べてバブル崩壊によるマイナス影響が少なかったのではないかと思う。バブル崩壊⇓成金顧客の喪失 ⇓ セゾングループ解体というのは、あまりに単純な図式に思えるが、どうだろう。もちろん、この二つ目の⇓(矢印)の間には、「西洋環境開発と東京シティファイナンスの多額の負債が引き金となって」という一文が収まることは周知の事実であろう。
只、バブルの崩壊を予期したり、上手く逃れた人を筆者は知らない。日本の経済、社会全体にとって不可避だったことは、申し添えておきたい。
一億総中流から
前述した、松屋銀座のインバウンド注力や伊勢丹の富裕層シフトについてだが、企業が、というか都心の百貨店が生き残るための「選択と集中」戦略として、もちろん間違っていない。
只、大手百貨店の「絞り込み」から外れた人(外された客?)この場合具体的には貧乏な日本人だが、「私はもう客ではないのね」という自覚を持たなければいけないのだろう。
本コラム4月1日号で、三越伊勢丹のCRM戦略(年間買上300万円超のプラチナステージから、1000万円超のプレミアダイヤモンドステージの情報公開)について言及している。伊勢丹は(ここはあえて三越伊勢丹ではなく)常に上位客(ロイヤルカスタマー)を見ているのだ。CRM政策の基本のキだからだ。
筆者は「本当の富裕層はごく少数なので、格差社会というのは『一億層貧困』社会に他ならない」と思っている。格差社会というのは、貧者はいつまでも貧者のままであり、富める者は更に富む、ということである。
格差(貧富の差)は開く一方なのであれば、ごく一部であっても、富める者にべットする(賭ける)方が勝ち筋だというのは、間違っていないのかもしれない。庶民というのは、ない袖は振れないモノだからだ。昔も今も。もちろん、「最大多数の幸福」などという理想論で、伊勢丹の商売を批判する権利も、道理も、筆者が持ち合わせていないのも事実だ。

選択の自由
ショッピングモールやホームセンター、ディスカウンター、コンビニ、食品スーパー、商店街でも個人商店でも良い。民主主義(資本主義)国家である我が国には、多様な販売チャネルが存在し、我々庶民は、自由に好きな店舗を選ぶことができる。これに通販やネットショッピングを加えれば、そもそも何の不自由もないはずなのだ。逆に言えば例え「貧乏人お断り」の立て札がなくても、富裕層向けの商品しかない伊勢丹に出向く理由は、本来は皆無なのだ。
それでも筆者は伊勢丹に行く。デパート新聞の取材だから?それもあるが、正直に言うと、筆者は「背伸び」がしたいのだと思う。
買わないのか買えないのか
皆「都心のデパートに行かなくなった、だって買うものがないから。」と言う。若い人ならそうだろう。しかし我々世代は、本当は「買えなくなった。」なのだ。高すぎて。
「欲しいけれど買えない。」というパターンなのだ。それでも、買おうと思えば買えるのだ、だから時々「魔が差して」買ってしまうのだ。買える自分を誇示したくて。見栄なのだろうが、これが筆者の言う「背伸び」の正体だ。
伊勢丹で買える自分に「憧れ」ているのかもしれない。デパートには昔からそういう「魔力」があり、それは「ロイヤリティ」とも呼ばれている。
用語解説:顧客ロイヤリティとは
顧客ロイヤリティは、単なる一時的な満足ではなく、「このブランド(デパート)をまた選びたい」「他の人にも勧めたい」と感じさせる長期的な心理的結びつきを指す。これは、感情的な信頼(心理的ロイヤリティ)と実際の行動(行動的ロイヤリティ)の両方を含む概念であり、競合より高価でも選び続ける、口コミで紹介するなどの行動にも表れる。
馴染みのデパートで買い続けられる経済力を維持する、というのは、働くモチベーションにも繋がる。「あんた、デパートに貢ぐために働いているのか?」と問われれば、答えは「イエス」なのだ。いろいろな言い訳は付け足すが。
筆者は違うが、百貨店の外商客は正にそうであろう。自尊心(うぬぼれ?)が百貨店に対する忠誠となるのだ。百貨店が与えてくれるのは、安心安全とステータスだ。
デパートの未来
と、ここまで勢いに任せて書き綴って来たが、百貨店顧客の限界は日本経済の限界であり、このまま年配の富裕層が減っていけば、富裕層シフトしたデパートには、先細りした未来しか残っていないはずだ。ヤングエグゼクティブ(若手富裕層)の新規開拓や、優良インバウンド客の囲い込みは当然行っているであろうが。
本紙社主の田中潤の著書「みんなのデパート」では、地方百貨店は経済性よりも社会性を重視し、公益が持つ地方再生への可能性とデパートの公益性について語っている。
地方デパートは経営が苦しいからこそ、生き残るために、切磋琢磨しているのだ。
だとすれば、逆に都心の大手百貨店は、このままインバウンドを含めた富裕層シフトだけで、サバイバルできるのであろうか。
このまま、物価高やステルス増税による実質可処分所得の減少が続けば、「デパートで背伸び」したいとか「せめてデパ地下でプチ贅沢したい」等と言う、甘い認識の中間層は、デパートより先に絶滅してしまうかもしれないのだ。
失われた30年で、淘汰されてしまったデパート(と日本経済)だが、この後の30年で、デパートも経済も、ルネッサンスが叶かなう未来というのは、中々難しいかもしれない。
あ、30年後、筆者は居ない(可能性が極めて高い)ので、検証は後進に譲る。
一つ言えるのは、今のところ、デパートのルネッサンスは「どこにもない」。

デパート新聞編集長


