デパートのルネッサンスはどこにある? 2026年05月01日号-第137 回 西武百貨店閉店で渋谷はデパートゼロに

渋谷は誰のもの
渋谷の街を、商業(小売り)以外の側面で見てみたいと思う。IT企業の集積に加え、スタートアップが増えたことにより、渋谷エリアの就業人口はこの10年で3割ほど増えている、というのだ。今回の西武閉店の報を受け「渋谷の多様性が失われた」等という意見をよく耳にするが、我々業界人だけの狭い世界の話なのかもしれない。
いきなり反省の弁から始まってしまったが、業界人は渋谷というトレンド(流行)の中心地の変遷や喪失と結び付けて、ショッピングやエンターテインメントという切り口だけで「昔はよかった」的に語りたがる。そういった業界の悪しき慣習に、筆者自らも囚われていた様だ。
住民と来街者
渋谷界隈で働いている人や今住んでいる人たちにとって、東急がどうしようと、西武がなくなろうと「あ、また何か出来るのね。あら、あのビルなくなっちゃったの?」というレベルの事なのだ。
住民や働き手は、そんな事よりも無遠慮な外国人旅行者や、ハロウィンで騒ぐ無軌道な若者の方を「どうにかして欲しい」と思っているのではないだろうか。もちろん、それも「ひっくるめた」総体が渋谷という街なのであり、スクランブル交差点を撮影する外国人やハチ公にまたがるコスプレイヤーでさえ、メディアに話題を提供しているのだ。いささか無責任かもしれないが「悪名は無名に勝る」と考えれば、それも渋谷の引力だと割り切る事も可能だ。
実際、今回の渋谷西武閉店を受け、何らかのノスタルジーを感じる業界人は意外と思えるほど多い。「失われてしまった渋谷」を熱く語る人が多いという事は、それだけ20~30年前の渋谷が、特別な場所だった、というデパート新聞編集長 山田悟証左でもあるのだ。さて、前置きが長くなって恐縮だか、エクスキューズが済んだので、この後は「居直って」来街者としての意見をまとめてみよう。

モノだけでなく、文化も売る
セゾン文化は、1970~80年代、若者の間で一世を風靡(ふうび)した。渋谷カルチャーを牽引したのは、故堤清二氏であり、そのセゾン文化の発信拠点となったのが渋谷西武だった。
池袋で稼ぎ、渋谷から発信をする、というのが当時のセゾンの戦略であった。西武もパルコも。
生活を豊かにするのはモノだけではない、との考えから、劇場や文化複合施設を次々に展開したセゾングループ。単なる小売りではない「文化を売る」戦略が奏功し、渋谷西武やパルコで買い物をすることがステータスとされたのだ。
逆から見れば「一般消費者」であった人びとが、渋谷西武(というかセゾン)のフィルターを通すだけでちょっと「おしゃれな生活者」に変貌(昇格)してしまうのだ。堤清二は、筆者が本コラム2025年12月1日号で説明した「モノ消費からコト消費」を30年以上前から標榜し、かつ実践していたワケだ。

大人の街と若者の街
セゾン文化の最盛期に渋谷の魅力を目の当たりにした人びとは皆、渋谷の街に憧れを持った。ひとくくりに繁華街と言っても、銀座や日本橋はハイソサエティな「大人」のイメージがあり、新興住宅地を後背地に持つ山手線の西側エリアにおいてのみ「若者の街」は成長していった。渋谷の街は、新宿や、もちろん池袋よりも「おしゃれな」な街だったのだ。表参道や青山、そして代官山との距離感も良かったのかもしれない。
渋谷、新宿、池袋といった「若者の街」の間でも、ある種のヒエラルキーは存在した。JR中央線、総武線に加え私鉄地下鉄の巨大ターミナルであり、圧倒的な乗降客数を誇る新宿は、やはり別格であり、都庁を含むビジネスゾーンと歓楽街が入り組むカオスな都市だ。
池袋と渋谷
なので、ここでは池袋と渋谷を対比して考えてみたい。前述した様に池袋西武で稼ぎ、渋谷西武から情報発信をする、というのが当時のセゾンの戦略であった。もちろん同グループ傘下であったパルコも同じ構図であったのは間違いない。
蛇足だが当時は、今の様に副都心線も、Fライナーもないので、埼玉の住人は、彼ら彼女らの専用玄関である池袋で買い物をし、時々渋谷へ行く時は山手線に乗り換えなくてはならなかった。
※西武池袋線や東武東上線を使う人びとだ。渋谷に直接私鉄で乗り入れる東急東横線や京王井の頭線沿線を利用される多摩や神奈川方面から来られる方々は、当然カーストのもう少し上位に位置していたのだ。もちろん筆者の勝手な妄想かもしれないが。
失われた「煩雑性と多様性」
渋谷の街を変えた「セゾンカルチャー」だが、そのブームもバブル崩壊とともに下火になり、そしてセゾングループも解体に向かった。文化を売れなくなった西武渋谷店は、競合店との競争で埋没していった。そこに近年の渋谷駅周辺の東急グループによる再開発である。
再開発が悪いのではもちろんないが、個人的には東横線(副都心線)から銀座線への乗り換えが非常に不便になった、とは感じるが。
東急回帰
前号でもお伝えした様に、渋谷には2012年4月のヒカリエを皮切りに、スクランブルスクエアなど駅直結型の商業施設が次々と開業していった。そうした東急の攻勢に対し、2011年度に400億円だった西武渋谷店の売上は直近で250億円まで(4割近く)減少した。※前号ではロフト館、モヴィーダ館も含めた5館の直近の年商(400億)を提示しているので気を付けてほしい。
識者からは 「渋谷の魅力だった『煩雑性・多様性』が失われ、他の街と大差がなくなった。その結果、若者が渋谷にこだわる理由がなくなった」と分析している。そして「セゾン文化が目指した若者文化や情報の発信は、渋谷からなくなった」と惜しんだ。
全盛期を知る人びとは懐古とともに渋谷の未来への「憂い」を語るが、前号でも申し上げた様に、この手の意見に対しては、「いや、20年前から既にそうだった。」なのだ。「渋谷西武、良くここまで持ちこたえたな。」が筆者の正直な感想なのである。
渋谷からデパートが消えた
グループ解体後、セゾンは漂流を続け、今も漂流しているのかもしれない。ただ、故堤清二氏が手を引いた段階で、セゾン文化は既に終わっていたのだとも思う。西武渋谷店の閉店は、それがついに顕在化したのだという事だ。「セゾンの死」は、セブン&アイが買った時でも売った時でもない、もっと言えばそごう・西武になった時でもないのだろう。
渋谷駅周辺では、東急百貨店が東横店、本店とも再開発に伴い既に閉店している。西武渋谷店が閉店すると、渋谷から百貨店が消えることになる。当面ではなく永遠にだ。もちろん、ここ20年ほど、新たにオープンする百貨店の話など、聞いたことがないから当然だ。
堤さんは晩年に「百貨店という形態はもう日本ではほとんど残らないだろう」と語っていた、という。「デパート自体が時代から取り残されてしまった」とも。正に慧眼(け いがん)という他ない。
跡地再開発の行方
気になるのは閉店後、跡地がどのように再開発されるかだ。渋谷は2010年代以降、渋谷ヒカリエなど多くの新しいビルが建設され、現在も東急百貨店本店跡地などを中心に再開発が進められているが、西武渋谷店の跡地開発には不安要素も多い。
渋谷の盟主である東急も、ヒカリエ、スクランブルスクエア、ストリーム、フクラスと相次いでテナントビルを建ててきたが、さすがに「サクラステージ」まで来ると、ネタ切れ感は否めない。閑古鳥という言葉は使いたくないが、東急プラザ原宿(ハラカド)や東急プラザ銀座の様に、というのはもっと失礼だが。
因みに、数寄屋橋の交差点に位置する東急プラザ銀座は、いつの間にか「ギンザノボ」に改称した様だ。※2016年の開業から運営を担ってきた東急不動産が撤退し、2025年2月に土地・建物の取得を発表した香港の投資会社ガウ・キャピタル・パートナーズに運営が移った、とのことだ。いつの間にやら、であるが。只筆者が不勉強であっただけだ。申し訳ない。
話を戻そう。西武渋谷店はスクランブル交差点からすぐであり、渋谷駅からも近いが、地形を考慮すると実は「悪条件」といっても過言ではない立地なのだ。井の頭通りの地下には宇多川が流れており、A館とB館は地下で接続できないから、両館とも面積が狭くなってしまう。
西武渋谷店A館とB館は(無印良品・ロフト除く)の売場面積は3万1888平方メートルで、新宿伊勢丹(本館・メンズ館合計の6万4296平方メートル)の半分であり、半減した池袋西武(約4万8000平方メートル)よりも更に狭いのだ。
そのせいで、昨今の百貨店の主力アイテムであるデパ地下(食品フロア)は、A館の地下1階だけしかない。池袋西武が日本最大級のデパ地下(約180店舗)を目玉にリニューアルしたのと対照的だ。

便利な街
ここから先は人によって意見の違いはあるだろうが、渋谷は相次ぐ再開発によって独特の魅力を失ってしまったと筆者は考える。渋谷には百貨店のような商業施設以外にも、長年親しまれた個人店もたくさんあった。だがこれらの店舗は再開発に伴い移転したり、廃業してしまう例も多いと聞く。
代わりに新しく増えたのは、インバウンド向けのハイエンドショップや、その逆の全国チェーンの飲食店などだ。昭和~平成世代が抱いた、渋谷に対する魅力は、正直色あせてしまった感がある。※もしかして筆者の感覚が、今の若者の新しい感性に追いついて行けてないだけ、なのかもしれないが・・・
聞こえてくるのは、渋谷は今や単なる「便利な街」としか認識されていない、とか、かつては渋谷でしか味わえなかった「トレンド」が、いとも簡単に他の街や、それこそ地方都市でも手に入るようになった、等々。魅力的な個人商店が再開発で消えてしまったことにより、渋谷から「遊ぶ街」「飲む街」としての吸引力が失われてしまったと指摘する声は多い。
面展開
かつての西武渋谷店は立地の悪さを、新進気鋭のデザイナーズファッションや、ロフトや無印といった独自のコンテンツを開発や、アートやエンタメ企画でカバーし、集客に成功した。
後背地である代々木公園に向かう「公園通り」には、セゾンの手下(仲間?)である渋谷パルコやロフト、無印良品が「面」展開をして、セゾン村を形成し援護射撃をしてくれた事も大きい。
今後、渋谷の再開発が「若者の街」から「働く人の街」「大人の街」へと変わる中で、少なくとも「便利な街」どころか、「通過する街」に代わってしまうかもしれないと危惧するのは、筆者だけではあるまい。
但し、若者の街が大人の街に代わってしまうのは、必然かもしれない。少子高齢化含め人口は減少し、東京一極集中といった現象も、もうしばらくは続くだろうからだ。
※これについては、只老人が増えるだけという説もあるので、大人どころか老人の街だが。
単に大きな箱モノを建てて終わり(東急を揶揄しているのではない)ではなく、かつてのセゾン文化に象徴されるような、時代を再びつくる(正にルネッサンス)くらいのインパクトは必要である。そして急に卑近な話をして恐縮だが、やはり「渋谷らしい」個性的な路面店が残っていける様な街であって欲しいと考えるのだ。失礼!「渋谷らしい」と言った時点で「〇〇らしい」の〇〇は人により千差万別であるが。
追悼「セゾン」
最後に、筆者が西武百貨店や旧セゾングループについて語った2024年7月1日号の本コラムを再掲載する。筆者はそこで、当初2025年の夏にリニューアルを終える、としていた西武池袋店の全面改装のリリースについて言及している。
※実際には工事は大幅に遅れ、半年後の2025年末どころか、2026年春になっても「全館リニューアル」の完成には至っていない。
かつての西武百貨店と言えば、筆者の世代はコピーライター糸井重里の秀逸なキャッチコピー「おいしい生活。」が脳内に想起させられる。日本の広告の歴史に刻まれたこの名コピーに代表される、カリスマ創業者であった堤清二が唱え、一世を風靡した「セゾンカルチャー」を思い起こすのだ。
今回のそごう・西武売却を巡っても、亡くなった高野前豊島区長がヨドバシ反対の理由として挙げた「百貨店の文化」に思いを馳せるのは、筆者のノスタルジー故なのだろうか。
たかがコピー、されど糸井重里や林真理子が、希代のコピーライターとして、時代を経ても人びとの心に残るのは、両氏の才能であり、作品のすばらしさであることに間違いはない。
しかし、そのコピーを用い、堤清二が西武や西友を通じて、それまでは単なる「消費者」であった我々を「生活者」へと進化させたコトを忘れてはならない、と思う。小売り、流通業に携わる者であればなおのことだ。逆に言えば、「モノを売る」だけだった小売り(百貨店や量販店)が、買う人の生活(や意識)まで変えた、いや進化させたのが1980年代のセゾンだったのだ。そしてその起点となったのが40数年前の西武百貨店であった、と筆者は解釈している。
文頭のキャプションにも書いたが、筆者のコラムも今回はいささかノスタルジックに過ぎたであろうか。「池袋はなんとか半減で済んだが、渋谷は閉店せざるを得なかったので残念だ」とでも書けば良いのだろうか。それが世の流れであり、デパートは衰退の一途を辿るのだとしても。



デパート新聞編集長


